一人孤独の味わいを経験すること。
心の安らぎという安心を経験すること。
これらが真に自分の身に沁みたならば、
コノ世から自分の怖いものが消え去り、
自分の因果も消え去ります。
なぜならば、これらの経験は真理を知ることに至るからです。
(原始仏典 ダンマパダ15章-205番)
人間というものは、自分が本当は孤独であることを認めたく
ないし、孤独を避けようとして焦ります。
しかし、どんなに大家族で住んでいましても、人は真の意味
では誰もが孤独なのです。
誰もが自分の心の世界の中で一人で生きており、同時に周囲の
雑多な光景の中に居ます。
問題は、人は見える自分の周囲の環境を良くすれば、自分の心
が安心出来ると錯覚することです。
しかし深い意味では、それは同じ繰り返しを体験するだけであ
り、自分の心の深い安心感は別なのです。
自分の心を真に安心させるには、「自分が孤独であることを素直
に認めて、自分自身を静観すること」で、自分の心中に「深く
常に安心している大いなる存在」に気付くことしか無いのです。
人間は、何故生まれて来るのか?何のために生きるのか?
古来、問われ続けているテーマですが、答えは突き詰めると一
つです。自分の心の中に宿って下さっている、元の元の大いな
る存在に気づくためなのです。
この地球という世界は浄土から地獄までの様相が、同時に共存
するという特異的な(ごく稀な状態)なのです。キレイごともあ
れば、異常に汚く悍ましい物事、殺人、暴行、虐待、強姦、臓
器売買、人身売買も行われている人間としてまともではない現実
がこの地球にはあります。
こういった環境の中でも、周りの刺激に惑わされずに、自分の
心に宿る究極の母性の仏さまへと自分の気持を向けることが大切
であり、これこそが人がこの世に生まれて来る目的なのです。
生きていれば誰でも悩みや不満はあるでしょう。でも、その中
でも自分の心の究極の母性を見詰めるのです。折れそうな心の
中でも見詰めるからこそ、より自分自身に向き合うことができ
るのです。
では、心の仏さまを見詰めるのには、どうしたらいいのでしょ
うか?それは喜怒哀楽を体験できるというのは、生きていれば
こそだという視点を持つことです。
内在する仏さまに気づくためには、お念仏でも結構ですし、
お念仏以外の宗教宗派の方は、「生かしていただいて あ
りがとうございます」と、日々この言葉と共に生かされてい
る感謝の生活をすることです。
自分自身が身動きではない老人になったとしても、深い安
心感に包まれながら次の旅へと旅立つことが誰でも可能な
のです。
※本日は広島の「認定こども園の第73回運動会」でしたが、
雨で来週の月曜日16日に延期になりました。ザンネン
この「こども園」では副住職と園児や保育士全員で毎朝のおつとめ
を行います。おつとめの中に「ありがとうの言葉」があります。
「ありがとうの言葉」
・ほとけさま、ごせんぞのみなさま いかしていただいて
ありがとうございます。
・おとうさん おかあさん かぞくのみなさま
いかしていただいてありがとうございます。
・せんせい おともだちのみんな
いかしていただいてありがとうございます。
子どもたちは心の中にいらっしゃる仏さまに生かされて
いる感謝で園生活を過ごします。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載
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日本人の道徳心
「黙想の時間」
新渡戸先生は
「肉体に食べものが必要なように、
精神にも食べ物が必要だ」といっています。
精神の食べ物とは黙想のことですが、
先生のいう通り、
忙しくなればなるほど、
人間は黙想する時間が必要だと思います。
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今日の諺 「名実一体(めいじついったい)」
【意味】
評判や名前が、そのものの本当の姿とよく合っていること。
「名」は名目で、評判など。
「実」は実体で、実際の姿という意味。
「一体」は一つの体、同一ということ。
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