「人は信じるモノに成る」
いよいよ死ぬ時は、コノ世で高貴なゾウに乗るような人物でも
ニルバーナ(天国:絶対安心の境地)に行くことは出来ません。
そこには、謙虚な人が、更に自分自身を
安心・節制させますと、行くことが出来る可能性があります。
(原始仏典 ダンマパダ23章-323番)
浄土に行くには、謙虚な人が、更に自己を節制する気持ちを
維持してこそ、やっと行き着くことが出来ると釈尊はこの項
で示しています。
では、謙虚さを維持し、自己を節制してまでしてニルバーナ
(涅槃)に行く必要があるのか?そんな価値や意味はあるのか?
そんな我慢をするよりも、どうせ死ぬのだから好きなことを
したほうがお得では無いか?と思われる人もいるかも知れません。
この答えは、我慢するに値する価値も意味も「十二分に」ある
と私は感じています。なぜならば、コノ世に居る期間は誰もが
短く、アノ世で過ごす時節が圧倒的に長いからです。
残念ながら、コノ世だけで自分の意識が切れることはありません。
死後も継続しています。
私たちはどんなに着飾ろうとも、それを美しいと感じたり嫌だと
感じたりは、そう認識する自分の意識「だけ」の問題であるこ
とを思い出しましょう。
私たちは、コノ世の外見のことで喜怒哀楽をしますが、そのよう
に感じる自分の意識の問題なのです。この意識が、コノ世だけで
終わらずに死後も継続をするのです。
死後は、今の自分の意識が10倍の敏感さに成ると想像してく
ださい。嫌なことも10倍に感じ、自分がした良心に背くことも
10倍の罪悪感に感じ、快楽や楽しみの感情も10倍に成ると思
ってください。コノ世で体験する歓喜の10倍とは、コノ世での
どんな手段の歓喜も凌駕するものです。
「チベットの死者の書」ではありませんが、
肉体という鎧を脱ぎ捨てると自身の意識はそこまで繊細で敏感に
なるのだと感じます。
コノ世の短い期間だけを自己節制するだけで、ニルバーナ(絶対
安心・想像を超える歓喜)の境地にアノ世で長い期間にわたり
安住することに成ります。
100m競走(コノ世)に出場(誕生)した限りは、その短い間
ぐらいは一生懸命に走れば良いだけなのです。その100m走行
中に、休もうとすることが滑稽であり、自分が参加した意味があ
りません。多くの観客(先祖)も応援席で見ています。
今日も自分の生活を楽しみながら、その中でも謙虚さと自分の良心
に基づいた自己節制に挑戦して見ましょう。
「必ず救う」という阿弥陀さまに任せ切れば
頑張らなくても安心してそうなっていきました。
大きなはたらきが、必ず自分をニルバーナへと連れて行きます。
・本日の8時15分原爆が広島に投下されました。およそ30万人の
方が現在までお亡くなりになりました。社員全員で8時15分に
は心より黙禱し、さらに本日弊社で研修を受けられる企業の
皆様には午前12時に黙禱を捧げ追悼のお焼香をお供えしていた
だきます。合掌
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載
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日本人の道徳心
「運を呼ぶ二つのひも」
露伴は『努力論』の中で、
人間が自分に運が来るように引っ張るとき、
二種類のひもがあると言います。
一つのひもは、絹のやわらかい、
いいひもです。
引っ張っていると気持ちがいい。
しかし、そういうのを引っ張っていると、
だいたいろくでもない
運が引っ張られてくる。
もう一つのひもは、
力を入れて引くと手に傷がつくようなひもです。
しかし、苦労して引っ張っていると
いい運が出てくる。
このたとえで言うように、
運というのは自分の都合のいいような
解釈をしているようでは来ないということです。
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今日の諺 「恒久平和(こうきゅうへいわ)」
【意味】
世の中が、ずっと変わらず平和であること。
「恒久」とは、永久に変わらないという意味。
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