
【今日の気づきの法話】
原始仏典を読む中で、私が強く感じたことを書きます。
原典の解説ではなく、日々の生活の中で感じた私的な
「気づきのメモ」です。
*自分はただの凡夫なんだ。だからこそ、素直であればいい*
鍛冶屋には学問も修行歴もありません。
それでも一目で、
「この方は真理を知る人だ」
と直感しました。
理由はただひとつ。
◎ 本物は、説明しなくても“空気”で伝わるからです。
人は知識ではなく、
“にじみ出る静けさ・澄みきり”に触れて判断するので
心が静まると、人は自然と、
「この世界の成り立ち」
「人の心の動き」
「善と悪の流れ」
が分かるようになります。
これは超能力ではなく、
心が曇っていないだけ なのです。
鍛冶屋は釈尊を前にして、
「名誉を求める気配が一切ない」
と感じました。
老子もこう言います。
◎「名声を求める者ほど、本質が見えていない」
本物は有名になろうとしません。
ただ、必要な人のところに自然に届くだけです。
悟りは特別ではありません。
・飾らず
・無理せず
・静かに
・執着を減らして生きる
これで十分なのです。
深く自分を知るほど、
人はこう気づきます。
◎「自分はただの凡夫なんだ。だからこそ、素直であればいい」
これこそ仏さまの願われる
素朴で、美しい人間の姿 です。
釈尊が示した真理は難しくありません。
“静けさ・正直さ・無理のない生き方”
これらが積み重なると、
あなた自身の中に
鍛冶屋が持っていた直観が生まれます。
つまり、
◎「本物を本物と見抜く力」
◎「真理を自然に感じ取る力」
が、誰の心にも宿るのです。