
「良心という存在」
私たちは日々、
無意識に、
「正しいか、間違っているか」
「損か、得か」
「周りにどう見られるか」
そんな基準で判断しがちです。
けれど実は、
それよりもずっと静かで、
ずっと確かな基準が誰の中にも
最初から備わっています。
それが 、良心 です。
良心とは、
誰かに教えられて身につくものではありません。
一般的に考えられるルールでも、道徳的な常識でも
ありません。
もっと手前にあります。
・これをしたら、心が少し重くなる
・やらなかったら、後ろめたさが残る
・誰も見ていなくても、胸が曇る
・とにかくスッキリして気持ち良い
・いたたまれないほど胸が痛い。
・なぜかとても安心している。
・利益を得ても何かスッキリしない。
この 微細な違和感。それこそが、良心の声です。
良心は大声で叫びません。
怒鳴りもしません。
ただ、静かに教えてくれます。
「それは、
あなたの本来の在り方ではないよ」と。
人は、
良心に逆らうとき、必ず調律が乱れます。
心がザワつき、呼吸が浅くなり、人や環境のせい
にしたくなります。
逆に、良心に沿って生きたとき、状況が厳しくても、
なぜか心は静かです。
穏やかな安心があります。
この 静けさや安心が、正しさの証明なのです。
釈尊が見抜いていたのも、実はここでした。
人を育てるのは、環境でも、財産でも、言葉でもない。
その人自身の良心である、と。
だから調律とは、何かを足すことではありません。
自分の中にある良心の声を、
もう一度ちゃんと聴ける状態に戻すこと。
まさにこれが人生をより良く生きるカギになります。
今日一日、
「正しいか」ではなく「良心が静かか、重いかどうか」で
一つだけ選んでみてください。
それだけで、
人生の身心の調律は確実に整い始めます。
※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。
今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。
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徐善如水エッセイ
良心は重さとして現れる
良心は、
声として耳から聞こえるものではない。
叱るわけでも、導くわけでもない。
ただ、
行いの前後で、
胸の奥に「重さや違和感」か「軽さや安心」として現れる。
それだけだ。
何かを選んだあと、
理由は正しいはずなのに、
どこか胸が重いことがある。
反対に、
損をしたように見えても、
不思議と心が軽くなることもある。
この重さと軽さこそが、良心の働きだ。
良心は、
自分が作り出した基準ではない。
両親が生きてきた姿、
先祖が積み重ねてきた生き方、
そして仏さんの働きが、
一つになって現れているものだ。
だから良心は、
時代が変わっても、
立場が変わっても、
ほとんど変わらない。
人を傷つけたとき、
自分を偽ったとき、
責任を人に預けたとき、
心は必ず重くなる。
反対に、
目立たなくても、
誰にも評価されなくても、
誠実であったとき、
心は静かに軽くなる。
仏さんは、
遠くで見ている存在ではない。
良心として、
今この瞬間の重さと軽さで、
是非を教えている。
だから修行とは、
特別なことを積み上げることではない。
日々の選択の中で、
胸の奥の重さを確かめ、
軽い方へ軽い方へ、
気持か良い方へと戻り続けることだ。
もし迷ったときは、
頭で正しさを探す必要はない。
ただ、
自分の内側が重いか、軽いかを観ればよい。
その軽さの中に、
両親があり、
先祖があり、
仏さんがある。
良心とは、
そのすべてが一つになった、
静かな重さと軽さなのだから。