
「弥陀の本願海」
人は思っている。
いい人になれば、
怒らず、妬まず、やさしくできれば、
仏さまに近づき、きっと救われるのだと。
けれど夜になると、
ほんとうの自分が顔を出す。
許せない心。
比べてしまう弱さ。
やさしくできなかった後悔。
胸が痛む。
どれだけ努力しても、
迷いは消えない。
「こんな自分ではだめだ」と、
自分で自分を裁き続ける。
けれど
救われるのは、
世間が言う立派な人ではない。
もう立てないと、うずくまった人。
がんばっても無理だと、力が尽きた人。
その場所にこそ、
光は届いている。
がんばれなくなった場所が、
ほんとうの出発点。
宗教のかたちは違っても、
その奥には、
すべてを包む慈悲の光の海がある。
その光は、選ばない。
責めない。
条件を出さない。
ただ、照らす。
南無阿弥陀仏。
それは、こちらから仏を呼ぶ声だと
思っていた。
けれどほんとうは、
「あなたを、必ず救う」
その呼び声が、
先に私に届いていた。
念仏は祈りではない。
呼ばれていると知らされた者の、
深い安堵の息。
もう、愛されている。
もう、抱かれている。
迷いは消えないままでいい。
弱さはなくならないままでいい。
正直であればいい。
ごまかさなければいい。
感謝が芽生えるなら、それでいい。
世間的に立派にならなくていい。
光の中に、
すでにいる。
うずくまったその場所に、
あたたかい光は降りている。
今日もまた、迷いながら歩く。
けれどもう、独りではない。
照らされている。
ただ、照らされている。
そのままで
安心して、光の中。
合掌
※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。
今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。
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