「自身に内在する仏を信じる」
私は、すべての欲望(ワレヨシな自我)に打ち勝った。
私は、すべてのことが分かった。
私は、すべての意味で清浄である。
自分のあらゆることを手放した。
色欲も枯れました。そして、心は悟っている。
自分で悟ったのです。つまり、師と呼ぶ他人はいないのです。
(原始仏典 ダンマパダ24章-353番)
この項で釈尊が言いたいことは、「つまり、師と呼ぶ他人は
いないのです」なのです。2500年前の修行者にも、
現代社会の宗教の有料先生にもよく居るのですが、
「悟るためには、師匠が絶対に必要だ」と主張する先生が
非常に多いのです。
これは何のためでしょうか?
* 先生の立場と権威を守るため。
* 悟るため、と称して弟子から金銭を得るため。
が霊的な真相なのです。2500年も前のインドでも、そう
言いながら金銭を搾取する自称師匠が多かったのです。
釈尊はこれを真っ向から否定し、上記の言葉を仰ったのです。
「私は悟ったが、自分自身で悟ったのです。師匠と呼ぶ他人
などいません」階級制度や宗教戒律に厳しく縛られた社会では、
真相は分かっていても言えなかったのです。
多くの弟子を持つ有料先生が怒り、自分の権威を守るために、
この悟りの真相を言う人間を攻撃したからです。
誰もが見詰めるべきなのは師匠では無くて、自分自身なのです。
悟るのは自分だ、ということを忘れては生けません。
今日も、自分自身の生活の中で、自分を見詰めましょう。
そこに大切な生活のヒントも、成長も、悟りも在るのです。
誰もが、既にすべてが揃っています。
後は、自分で気付く(悟る)だけなのです。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載
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日本人の道徳心
「仕事と遊び」
本当の仕事というのは
真面目に夢中になってやれば、
比較的飽きないものであって、
そこからの疲労は意外に早く回復する性質のものであり、
永続的な喜びが生ずるものだ。
それに反して、遊びというものは、
意外に早く飽きが来て、
意外に早く疲労がおきて、
またやりたいという気持ちになるまで
相当時間がかかる。
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今日の諺 「内柔外剛(ないじゅうがいごう)」
【意味】
内面は弱いのに、見た目は強そうに見えること。
または、本当は気が弱いのに
強そうな態度をとること。
「内柔」は内面が柔らかい(弱い)、
「外剛」は外面がかたい(強い)という意味。
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