
【今日の気づきの法話】
原始仏典を読む中で、私が強く感じたことを書きます。
原典の解説ではなく、日々の生活の中で感じた私的な
「気づきのメモ」です。
人は、苦しい時ほど
自分から離れ、他人や外の世界を見始めます。
けれど釈尊は、はっきりと示されました。
苦しい時こそ、自分で自分を励ましなさい。
他人に答えを求めるほど、心は弱くなります。
立ち上がれるのは、いつも「自分自身」だけです。
不安な時、努力が無駄に思えることがあります。
しかしそれは、自我が生む錯覚にすぎません。
努力は、淡々と続けること。
続けている限り、必ず修正と改善は起こります。
また、
食べる・眠る・働く。
この生活の基本を崩した時、人は迷います。
整った日常こそが、すべての土台です。
そして何より大切なのは、
心の中に、安心できる拠り所を持つこと。
人や物に預けた安心は、必ず失われます。
本当に信じるべきものは、
太古から続いてきた自分のいのち、
そして、右胸に静かに内在する良心(仏性)の声です。
自分自身を、
一番に信じてあげてください。
悟りとは、
特別な世界に行くことではありません。
今日の生活を、正しく、誠実に、生き続けること。
その継続の中にこそ、
静かな目覚めと、本当の幸福があります。
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念仏の世界
そのまま生きよ
人は、苦しくなるほど
自分を責め、迷い、力で何とかしようとします。
けれど阿弥陀さまは、
すでに私たちをそのまま抱いてくださっています。
出来ても、出来なくてもよい。
強くても、弱くてもよい。
ただ、今日を投げずに生きること。
食べ、眠り、働き、
また迷いながらも生きている・・・、
その姿こそが、すでに念仏の中にあります。
私たちが安心するのは、
自分の力によってではありません。
「そのままでよい」と
すでに救われている事実に気づく時です。
努力は、救われるためにするのではない。
救われているからこそ、今日も懸命に生きるのです。
なんまんだぶつ。
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上善如水エッセイ
「まさかの坂の向こう側」
今日は三か月に一度の前立腺癌の定期健診。
君津中央病院で前立腺を全摘してから、早いもので四年が経つ。
お陰様で前立腺腫瘍マーカーも毎回安定し、
こうして今日も無事に生かされている。
人生には、
上り坂、下り坂、そして「まさかの坂」がある、
とよく言われる。
多くの人にとって、その「まさか」が病気であり、
前立腺癌だったとしたら、
それはショックで、恐ろしく、受け入れがたい出来事だろう。
ところが僕の場合は少し違った。
前立腺癌が見つかり、
「中田さん、全摘になります。男性性も・・」と分かったその瞬間、
悟りフェチの僕は思わず心の中で叫んだ。
「ヤッタ!!
これで中性の阿弥陀さんジャ!!
メンドクサイ性欲から解放される!!」
手術で痛いのは嫌だったが、
落ち込むどころか歓喜していた。
人が聞けばただの変人ジジイである。
今思い返しても、
我ながら変わった反応だと思う。が、
実はこういったパターンは僕にとってあまり珍しくない。
しかし、
このような出来事がもたらしてくれる功徳や恩恵は、
その後の人生に、確かに、静かに、深く効いている。
この四年間で、
お酒の量は自然と減り、
食事も自然と採食が増え、
夕食はとても簡素なものとなっていった。
消灯時間は夜九時、
起床は朝三時に定着した。
長年まとわりついていた
「酒飲みの癖」からも、いつの間にか抜け出し、
この身体が“借り物”であることに、
以前よりもずっと感謝できるようになった。
だからといって、
与えられた命を最後まで全うできるかどうかは分からない。
けれど、もし仮に、
この先に何かがあったとしても、
後悔なくこの世を去っていける
その確信だけは、はっきりとある。
そんな心境に立てたのも、
すべてはこの前立腺癌のお陰だ。
悪と見える出来事は、
悪のままでは終わらない。
この世の真相は、
すべてを転じて善と成していくところにある。
まさに水のように、
低きへ流れ、
抗わず、それでいて、すべてを清めていく。
上善如水。
三か月後もまた、
そう思いながら君津中央病院へ向かう。