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12/25(木)「整えようとしない智慧」

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〜整えようとしないという智慧〜

 

人は、

うまくいかないときほど、

自分を「正そう」「整えよう」とします。

でも、釈尊が示した道は、

少し違いました。

 

仏は、

心を無理に正すことも、

感情を押さえ込むことも、

一度も勧めていません。

 

ただ、

「そのまま、よく観なさい」

そう静かに示しました。

 

乱れている心を、乱れたまま観る。

 

不安な心を、不安なまま観る。

 

すると不思議なことに、

心は少しずつ、

自分で音を合わせ始めます。

 

これが、調律です。

仏教でいう、中道です。

 

調律とは、

力を加えることではありません。

余計な力を、そっと抜くことです。

 

私自身、長い人生の中で

何度もへこんで立ち上がり、

「これでいいのか?」と何度も迷い、

それでも前に向かって歩いてきたのは、

「正しかったから」ではなく、

自分の内側のズレに、

素直に正直であり続けたからです。

 

人は、

誤りながらでしか、

本当の音に戻れません。

 

だから仏は、失敗を責めず、

自身のいたらなさや弱さを否定せず、

「今ここに戻る」ことだけを

大切にしました。

 

今、息を一つ、

静かに大きく吐いてみてください。

 

それだけで、

もう調律は始まっています。

 

整っていない自分を

受け入れた瞬間、

人はすでに、

仏の道の上に立っているのです。

 

人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。

今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。

 

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上善如水エッセイ

父の命日と調律

昨日は、

父が七十二歳でお浄土に還った命日であった。

 

父は中学校の社会科教員で、

明るく、愉快で、人を和ませる力を持った人であった。

中学では生徒や保護者たちから「きっちょむ先生」と親しまれ、

説教ではなく、笑いの中に「なるほど」を残す人であった。

 

 

その父が、72歳の若さで

大腸がんから転移した肺がんで

この世を去ったのが昨日である。

 

そして不思議なことに、

その命日に、

私が住職を勤める長松寺のXが発信した

「調律という生き方」という投稿が、

思いがけず多くの人の心に響き届いていた。

 

それは教えでもなく、

主張でもなく、

ただ人間としての在り方として

以前から常に自分の在り方や

感じ取っていた言葉が、

静かに、自然に、広がっていったのだ。

 

私はそこに、

大きな意味づけをするつもりはない。

ただ、因縁というものは、

水が低きに流れるように、

自然なところへと収まっていくものだと感じた。

 

父は、決して正しい言葉で導く人ではなかった。

在り方で、生き方で、場を和ませ、調律する人であった。

 

そして今、

気が付けば私もまた、

何かを教えようとするのではなく、

自身の在り方で、生き方で、父と同じように

その場を笑わせ和ませ、

個々や組織の「調律」が自然と整っていく場が

生まれていく。

 

自分が何かを

計らってしようとするのをやめた時、

勝手に整ってしまう力を、

仏教では他力と呼び、

私は「調律」と呼ぶ。

 

上善如水。

今日もまた、

水のように、淡々と歩んでいく。

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