仲間や家族と一緒にいますと、
遊びや楽しい物事があるものです。
もし自分に子どもがいるならば、
家族への執着愛は大きなものです。
しかし誰もが必ずいつかは、
大切な人と別離が生じるのが
コノ世なのです。
コノ世はそういう世界だということを
覚悟して忘れずにいましょう。
どんな交わり、集団の中に
自分がいましても、自分一人で
歩く覚悟を持ちなさい。
まるで一本角が立つサイのように
一人で歩みなさい。
[原始仏典『スッタニパータ』
第一章第三節-四十一番]
釈尊いわく、
(1)家族や仲間と、いつかは別離することなど
一切考えずに暮らす生活。
自分の子どもとも、必ず別離するなどの
縁起の悪いことは信じないで、
一切考えないで今を楽しむ生活。
これとは反対に、
(2)家族や仲間と、いつかは必ず別離することを
覚悟しながら、今の生活を楽しむこと。
いつ何どき家族や友人と死別しても、
自分が後悔しない対応を普段から生きること。
この二つの生き方には大きな違いがあると、
この項で釈尊は示されています。
何がどう違うのでしょうか?
(1)の生き方ならば、家族や友人に対して、
*自分の感情に任せて好きなことを言って、
喧嘩をしても気にしない。
*嫌味を言ったり、
イジメをすることもあるかも知れません。
(2)の生き方ならば、
*今日が一期一会
(いちごいちえ:一生に一度の貴重な面会。
これが最後の面会)だと思い、
ムダな喧嘩をする気にもならない。
*相手を愛情深く、
感謝の気持ちで見ることができる。
*相手の些細なことは気にならない。
このようなことが言えると思います。
他人と喧嘩をするのも、
その人が嫌いだけれども、
ずっと生きている人だという前提が
あるから喧嘩ができるのかもしれません。
もし自分の嫌いな相手が突然に死にますと、
喧嘩をした者同士、喧嘩をした間柄ほど、
色々な感情が後まで残るものです。
親子ならば一生、
繰り返し思い出すものです。
これがコノ世なのです。
いつもの食事も毎日食べていますと、
明日も食べられるという前提を
勝手に思っているものです。
でも、明日からはもう食べられないと
認識した上で食べるならば、
いつも以上にしっかりと料理を見て味わうものです。
同じ一回の食事なのですが、
その感動の差には大きな違いが生じます。
これと同じことが、
必ず別離することを覚悟した上で
生活をしますと言えるわけです。
死を忘れている生活とは、
その中身に天地の違いが
長い人生では生じるということです。
今日は、他人や色々な物事
(動物・植物・乗り物・食事・仕事⋯⋯⋯)を
「一期一会」「今日が最後」
という視点で見てみましょう。
普段には気づけない、
何か大切な気づきが生じるものです。
それに対しての感謝が、
新たに湧いてくるかも知れません。
「柔訳 釈尊の教え 第一巻」
著:伊勢白山道より転載
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お客様の声
君津本店
●パーカーをシミ抜きに出された方が
お受け取りに来て、
「おーきれいになっている」と
おっしゃって頂きました。
(30代 男性)
伊勢丹新宿店メンズ館
●ダウンジャンパーをお出しになられたお客様
「いつもきれいにしてくれてありがとう」
「来年もよろしくね」
とお声をはずませてお喜びでした。
(50代 男性)