大きな大地のように素直に成り、
隙間が無い建付けの良い門のトビラのように、
全てにメリハリのあるケジメを付けていき、
澄んだ湖には汚れが無いように、
このような心境に居る人は、すでに生と死の区別(境界)
が消えて生き通(とお)しに成っています。
(原始仏典 ダンマパダ7章-95番)
(1) 大きな視野を持って、素直に成りなさい。
(2) すべてに誠意あるケジメを付けること。
(3) 澄んだ心で居なさい。
釈尊は、前記の三つを貫徹すれば、その人は生死の区別から自由
になり、死をむやみに恐れなくなると断言されています。
この三つを旨として貫徹すれば、「案ずるな 行けば分かるさ!」だと
言うことです。
ここで思いますのは、生死の区別を生きながら超えるために、古今東西
のいろんな宗教が秘伝を伝承しています。空海さんの即身成仏にしても
そうですし、チベット密教や近代の西洋の秘密教団もそうです。
しかし、そのどれもが社会的日常生活からとんでもなくかけ離れた、
ある意味では非常に難解で特殊な秘密主義にしか過ぎません。
そこにこの項を改めて見ますと、二千五百年前の釈尊の教えとは、なんと
シンプルで日常生活に即したものであり、現実的で、道徳的な内容なので
しょうか。
これならば真面目に取り組めば誰にでもできることです。生きる上で誰で
も知っておいた方が良い内容です。このシンブルな三つで、釈尊が「生死
の区別を超えられる」と保証する意味は非常に大きいのです。これこそが
本当の真理なのです。
昔、長渕剛演じる悟りの映画「ウォータームーン」を観たことがあります。
彼は生臭坊主であり、また人間でもない宇宙人です。竜雲は「生きる」と
いうことが分からないでいました。竜雲はいつも遠くを見ながらつぶやく
言葉がありました。それは「あたりまえの男に会いたい・・」。
悟りを求める寺の中にすらイジメのような卑俗なものがあり、その場に
嫌気をさして寺から出てもなお、世界には暴力、排除、負の感情が蔓延
しており、世俗の中でも彼は「生きる」ことに意味を見出せず、暴力で
他人を威圧し、ギャンブルをやり、「奪う」ばかりの人生でした。
しかし、盲目のヒロインの登場によって流れは大きく変わります。彼女は、
社会に適応できない竜雲に同情し、竜運を救い、助けます。それは彼が
初めて体験する「与える」存在でした。釈尊で言う乳がゆを与えてくれ
たスジャータのような存在でした。その盲目の無償の愛に触れることに
よって、竜雲は初めて「生きる」ということへの実感を覚えます。
そして竜運の「私があなたの目に成る!」という覚悟の言葉によって、
竜雲は初めて「与える」側へ、「悟り」の生き方へと、大きく変化して
いくのでした・・・(ここまで)。
つまり、竜雲が求めるものは権威的で形骸化されたお寺にはなく、社会
や世俗の中で人知れず懸命に生きようとする人たちとのご縁を生む場が、
最高の生活環境の場であり、最高の修行の場、学びと成長の場であった
のです。
人類は、物事を難解に解釈する癖を持ち始めてから、本当の大切な心の
良心を失くし始めたのだと思います。
人間はもっと単純に成り、もっと素直に生き、仕事や生活にケジメを
持ち、尊いものは尊い、違うものは違うと、澄んだ気持ちを持ち続け
て子ども以上に無邪気に真剣に生きて行きたい。
竜雲ではありませんが、昔は凡夫に居直っていた時期もありましたが、
真実を知れば知るほど、深く良心(仏性)を感じ取っていけばいくほど
自分を律し、感謝の道を歩みはじめるのです。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より抜粋転載
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日本人の道徳心
「意志を強くする」
筋肉を強くするためには筋肉を使わなければならないのと同じように、
意志を強くするためには、
意志を使わなければならない。
具体的には、本当に小さなところから
鍛錬を始めればいい。
一日一回、はっきり意志の力で何かをやったら、
だんだん意志は強くなるのだ。
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今日の諺 「一意専心(いちいせんしん)」
【意味】
ほかのことを考えないで、
一つのことだけに集中していること。
「一意」はひたすら、
「専心」は専念するという意味で、
どちらも一つのことに心を集中することを表わす。
「専心一意」ともいう。
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