「愛情がすべてを清めていく」
明るい夜の満月のように、
清らかに澄み渡り、曇りが無い人。
自我が欲する欲望の行いが枯れた人。
そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。
(原始仏典 ダンマパダ26章-413)
ただ言えますことは、
* そこに愛情が有る生活があったのか?
* 愛情を受けて育ったのか?
これが貧富の差も超えて、その人の心の清らかさ、
素直さ、曇りの無さを決めて行くことを感じます。
お金持ちで裕福な環境に育ちましても、
心を曇らせた人がいます。
むしろ多いかも知れません。
それは物やお金が有っても、
愛情が無い環境だったのかも知れません。
貧乏な環境でも、片親でも、愛情に溢れた環境ならば、
子供は透明な愛情ある良い子供に育って行くものです。
大事なことは、愛情の大切さだと思います。
そうしますと最初に挙げました、
「自我(ワレヨシ)の欲望の行いが枯れた人」
・・・・・真の愛情を人が発揮するには、
「駆け引きのない」愛情を人間が持つには、
自我の欲望が無いことが必須かも知れません。
つまり、生きる上での欲望は、
特に若い頃には大切ですが、
自分が真の愛情を発揮する意味では、
自我の欲望が無いことが理想です。
自分が真の愛情を持つ視点では、
「自我が欲する欲望の行いが枯れること」は
大切だということを知って置いてください。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載
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日本人の道徳心
「生活心得①」
「みんな畳一枚に寝て三食死なない程度のものを
食えばいいではないか」と言うと
文化の否定になるけれども、
その極限の尺度を時々頭に浮かべないで
生活することは危険であると思います。
永久に生きるわけではない。
着物ををいくら買っても、毎日、
二回着替えても、一念かかって七百着しか着れません。
だから、需要のぎりぎりの範囲ということは
時々念頭に置いて生活すべきです。
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