子供や伴侶という家族に対する執着とは、
まるで、根っ子が1つで繋がっており、
上方でも枝同士が近接して絡みあう竹林のようなものです。
でも原点は、誰もが竹の子のように
枝葉を持たない独立した存在であるのが人の正体です。
どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.38)
釈尊が、「君は竹の子なんだよ」と仰っています。
確かに人の一生を考えますと、
* 竹の子のように、先祖という根っ子の上に、
枝葉の無いツルンとした赤子で生まれ、
* 段々と枝を伸ばし、隣接する家族という枝と絡み合い、
* 子供は成長すれば離れ、
伴侶とも死別・離婚もするかも知れません。
* 竹は年月を経て上空に伸びるほど
他の枝との絡み合いは去り、
老いた竹は孤高の存在となり、
* いずれは枯れて、枝葉を無くし、
竹の子に戻ると言えるのかも知れません。
釈尊は、家族という
枝葉を持つなとは言っていません。
* 自分の本性は、枝も何も無いツルンとした
竹の子だったことを忘れるな!
と仰っているわけです。
これを忘れなければ、何が変わるのでしょうか?
* 家族への「怒り方」が変わるのです。
これは、かなり大切なことです。
家族の人生に影響するかも知れません。
人は竹の子のように、表面(自我)の黒い皮をむけば、
美味しく素直な白い中身が現れます。
でも黒い皮は、風雨や寒暖から中身を守ってくれます。
* 黒い皮=自我(ワレヨシな欲望)
* 風雨や寒暖=社会での試練。危険。
だから生きる限りは、
自我を完全に取り去る必要もありません。
ただ、内に純粋な白い中身を持つ自分を忘れずに、
意識して守ることが大切です。
* 白い中身=仏性
とも言えそうです。
要するに、この項で言いたかったことは、
* みんな竹の子だー。
なのです。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の教え 第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載
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