
「真理は心に宿る」
さまざまな宗教を体験して、
それで自分が変わらないことを思い知ること。
色々な宗教的な内容
教理を他人と論争しても、
何の意味も無かったこと。
それを超えて、
「自分自身を見詰める」
という正しい道に人が至った時、
「私は他人から何も学ぶ必要が無かったのだ」
という真の悟りへの知恵が生じます。
だから、
どんな交わり、
集団の中に自分が居ましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.55)
私たちは、
何かに迷ったり不安になったりすると、
「誰かに教えてもらいたい」
「正しい答えを知りたい」
そう思うものです。
宗教も、
自己啓発も、
スピリチュアルも、
たくさんの“教え”が世の中にはあふれています。
でも、
それらをどれだけ体験しても、
どれだけ学びを積んでも、
自分の中が変わらなければ、
何も変わらないのです。
どんなに立派な教えを知っても、
心の奥底で「自分はどう生きるのか」という問いに
真剣に向き合わなければ、
本当の意味での「目覚め」や「気づき」には至りません。
議論したり、
他人を説得したりすることに夢中になっても、
結局は「自分自身を真剣に見つめる」ことから
逃げているだけかもしれません。
本当の学びは、
外から誰かにもらうものではなく、
自分の中から気づくものです。
その気づきが起こる時、
心の世界は、
「私は他人から何も学ぶ必要がなかったのだ」
という静かな悟りが生まれます。
それは、
他人を否定するという意味ではありません。
むしろ、
他人に依存せず、
自分の足で立つ覚悟ができた人が、
他人を批判したり評価することよりも、
初めて自分自身も「人に言えるほどたいした人間じゃない」と
思い始め、相手を批評批判するのはもはや嫌になってくるのです。
なんたかんだ人の事を言っても
結局、すべては自分の問題だった。
人は自分の姿を映し出してくれる鏡だった。
はあ~~そういうことかぁ・・・。
だからこそ、
どんなに大きな組織の中にいても、
どんなに多くの人と関わっていても、
自分の人生は自分の責任で歩むという覚悟が必要なのです。
「孤独」ではなく、
「独立」。
「ひとりで歩む」ということは、
世界と切り離されることではなく、
世界の中で“自分の軸”を
しっかり持って生きるということです。
犀(サイ)の角は、
まっすぐに一本だけ立っています。
誰にも寄りかからず、誰にも媚びず、
ただ静かに、
自分の道を内なる良心(仏)と共に歩んでいく。
現代社会は情報が多く、
人とのつながりも濃いですが、
そんな時代だからこそ、
「一本角のサイのように、ただ独り歩め」という言葉が
より深く響くのです。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
参考文献【柔訳 釈尊の教え 第一巻】著:谷川太一
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