「誰もが必ずいずれ死ぬ儚い存在であることを決して忘れない」
人々や、
生き物たちの生死(せいし)を常に思いやれる人。
嫌なことへの執着をしない人。
より良く生きようとする人。
よく見聞きして色々なことが分かっている人。
そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。
(原始仏典 ダンマパダ26章-419)
私たちは社会で生きていますと、いろいろな人間がいて、
いろんな出来事に遭います。嫌で辛い目に遭ったり、
突如としてトラブルに巻き込まれることもあります。
幸せそうに見える人でも、この世に生きる限り、
いろんな嫌なことが必ずあります。傍から見ればまったく
そのようには見えないだけです。
実際には、不幸そうに見える人よりも幸福に見える人の
ほうが、より大きな不幸を背負っている人かも知れません。
どうして不幸な経験をしたのに、不幸な経験をしている
真っ最中なのに、幸福そうに見える人がいるのでしょうか?
それは、不幸の中でも生死に係わるほどの本当の厳しい不幸を
乗り越えて来たからこそ、その人は日常の「有難さ」に
気づけたからだと、感じます。
そこで、この項の最初に「人々や、生き物たちの生死を常に
思いやれる人」と明記されています。
つまり、生きていますと誰に見、嫌な人、腹が立つ人がいるものです。
でも、その嫌な人も「いずれは、死んでしまう儚い存在なのだ」と
自分自身が思えた時に、何故か相手への怒りが収まって行きます。
生じの視点を思い出すことで、不要な怒りなら必ず終息していきます。
だんら常に、
「明るく生死の視点を忘れない」ことは、自分を色々な意味で「正す」
ことを感じます。また、これが武士道の本質にも感じます。
武士道とは、人が簡単に死んでしまう存在だからこそ、命を大切にする
道だと感じます。
釈尊こそは、「他人の生死を常に思いやる人」だったと思います。
だからこそ、大きな「慈悲」「情け深い」御方でした。
人間は、自分が必ず死ぬことを忘れているから、他人を憎み、イジメる
ことが平気で出来るのかも知れません。
自分も他人も必ずいずれ死ぬ存在であることを常に忘れなければ、
* もっと他人に優しく成れるかも知れません。
* 期間限定だと思い、嫌なことも今より我慢出来るかも知れません。
* もっと精一杯に明るく生きることが可能に成るかも知れません。
今日も、誰もが必ずいずれ死ぬ儚い存在であることを忘れずに、
だからこそ精一杯に「明るく」生きて見ましょう。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載
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日本人の道徳心
「死ぬまでは生きる」
生きているうちに死んだあとのことを考えるのではなく、
死ぬまで生きられるように生きて、
そのときが来たらぱたっと死ぬ。
それでいいと思っています。
本なども、机の上や床の上に積み上げたまま
死んだとしても、一向に構わないと思っているのです。
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