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9/26(金)「誰もが必ずいずれ死ぬ儚い存在であることを決して忘れない」

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「誰もが必ずいずれ死ぬ儚い存在であることを決して忘れない」

人々や、

生き物たちの生死(せいし)を常に思いやれる人。

嫌なことへの執着をしない人。

より良く生きようとする人。

よく見聞きして色々なことが分かっている人。

そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。

(原始仏典 ダンマパダ26章-419)

 

私たちは社会で生きていますと、いろいろな人間がいて、

いろんな出来事に遭います。嫌で辛い目に遭ったり、

突如としてトラブルに巻き込まれることもあります。

幸せそうに見える人でも、この世に生きる限り、

いろんな嫌なことが必ずあります。傍から見ればまったく

そのようには見えないだけです。

 

実際には、不幸そうに見える人よりも幸福に見える人の

ほうが、より大きな不幸を背負っている人かも知れません。

どうして不幸な経験をしたのに、不幸な経験をしている

真っ最中なのに、幸福そうに見える人がいるのでしょうか?

それは、不幸の中でも生死に係わるほどの本当の厳しい不幸を

乗り越えて来たからこそ、その人は日常の「有難さ」に

気づけたからだと、感じます。

 

そこで、この項の最初に「人々や、生き物たちの生死を常に

思いやれる人」と明記されています。

つまり、生きていますと誰に見、嫌な人、腹が立つ人がいるものです。

でも、その嫌な人も「いずれは、死んでしまう儚い存在なのだ」と

自分自身が思えた時に、何故か相手への怒りが収まって行きます。

生じの視点を思い出すことで、不要な怒りなら必ず終息していきます。

 

だんら常に、

「明るく生死の視点を忘れない」ことは、自分を色々な意味で「正す」

ことを感じます。また、これが武士道の本質にも感じます。

武士道とは、人が簡単に死んでしまう存在だからこそ、命を大切にする

道だと感じます。

釈尊こそは、「他人の生死を常に思いやる人」だったと思います。

だからこそ、大きな「慈悲」「情け深い」御方でした。

 

人間は、自分が必ず死ぬことを忘れているから、他人を憎み、イジメる

ことが平気で出来るのかも知れません。

自分も他人も必ずいずれ死ぬ存在であることを常に忘れなければ、

* もっと他人に優しく成れるかも知れません。

* 期間限定だと思い、嫌なことも今より我慢出来るかも知れません。

* もっと精一杯に明るく生きることが可能に成るかも知れません。

 

今日も、誰もが必ずいずれ死ぬ儚い存在であることを忘れずに、

だからこそ精一杯に「明るく」生きて見ましょう。

 

今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。

皆さんの仕合せを心より念じております。

 

 

【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載

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日本人の道徳心

「死ぬまでは生きる」

生きているうちに死んだあとのことを考えるのではなく、

死ぬまで生きられるように生きて、

そのときが来たらぱたっと死ぬ。

それでいいと思っています。

本なども、机の上や床の上に積み上げたまま

死んだとしても、一向に構わないと思っているのです。

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