
仏教
「幸福と不幸を分けている、たった一つの差」
釈尊が見抜いた人生の差は、
運や環境ではなく、最初の小さな心の向きです。
●考えることをやめるのか
●原因を外に押し出すのか
●楽な方へ流差れるか
●理想を諦めるか
これらは誰にでもある心の癖。
しかし釈尊は言います。
人生の分かれ道は、
「最初にどう考えたか」にある。
怠惰な「まあいいか・・」で進むか、
「自分にできることは何か」ビリッ!と立ち止まるのか。
つまり、その人に問題意識があるのか?どうか?
その小さな差が、
やがて大きな人生の違いになります。
また釈尊の言う
「本当の大いなる快楽」とは、
●後ろめたさのない心
●逃げていないという一生懸命の実感
●自分への静かな信頼
これが積み重なったとき、
幸福は「追いかけるもの」ではなく
自然に起こるものになります。
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真宗
釈尊が見抜いた
「最初の小さな心の向き」
これは、浄土真宗では
「自分で立て直そうとする心」そのものを指しています。
人はつい、
・まあいいか
・仕方ない
・誰かのせい
・自分には無理
と、心を外へ流してしまう。
これは悪ではありません。
人間として自然な姿です。
だから親鸞聖人は、
「それを直せ」とは言いませんでした。
親鸞聖人が示した、もう一つ深い視点
浄土真宗ではこう見ます。
その「まあいいか…」
その「逃げてしまう心」
それを見抜いている“もう一人の自分”が、
すでに働いている、と。
つまり、
ビリッ!と立ち止まる力は
「頑張って生み出すもの」ではなく、
すでに与えられている“はたらき`なのです。
それが
阿弥陀のはたらき
=良心
=内なる目覚め。
「大いなる快楽」とは何か(浄土真宗的に)
浄土真宗でいう
「本当の安らぎ」「大いなる快楽」とは、
成功でも、達成でもありません。
それは、
・逃げてしまう自分も
・弱い自分も
・迷う自分も
丸ごと抱かれていると、ふと気づく瞬間
です。
そのとき人は、
・後ろめたさが薄れ
・一生懸命だった事実だけが残り
・自分を責めなくなる
そして、静かにこう思える。
「このままで、もう一歩生きてみよう」と。
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「上善如水」今を生きるエッセイ
上善如水(じょうぜんみずのごとし)とは何か
― 老子の言葉の核心 ―
老子はこう言いました。
最上の善は、水のような生き方である
水は、
・争わない
・目立たない
・低いところへ流れる
・しかし、万物を潤し、活かし、整える
水は「勝とう」としません。
「正しさ」を振りかざしません。
それでも結果として、
もっとも強く、もっとも深く、もっとも美しい。
老子が言う「善」とは、
道徳的に“良い人”になることではありません。
自然の理(道)に逆らわず、生きること。
それが
上善如水です。
来年の年賀状は「静かに」「深く」「美しく」
「静かに」― 水は騒がない
水は、音を立てて自分を主張しません。
黙って流れ、黙って浸み込みます。
人も同じです。
本当に整っている人ほど、
言葉は少なく、動きは静かです。
騒がず、煽らず、
今、目の前のことを淡々と行う。
静けさは、弱さではありません。
迷いが減った証です。
「深く」― 水は必ず奥へ届く
浅い水はすぐに濁ります。
深い水は、澄んでいます。
表面だけをきれいにするのではなく、
芯まで届く仕事をする。
ナチュラルクリーンの仕事も同じです。
汚れを「落とす」のではなく、
衣の奥に入り込み、
繊維の呼吸を取り戻す。
人も、場も、仕事も、
深さが出てくると、自然に整っていく。
「美しく」― 水は結果として美しい
水は、美しくなろうとしていません。
ただ、理にかなって流れているだけです。
それでも
光を受け、形を変え、
見る人の心を鎮めます。
美しさとは、作るものではない。
整った結果として、にじみ出るもの。
これは、
人の生き方にも
姿にも顔にも
仕事の姿勢にも
そのまま当てはまります。
上善如水 × 静かに・深く・美しく
― ナチュラルクリーンの仕事の流儀 ―
水のように生きるとは、
・無理に逆らわず
・無駄に争わず
・目立たず
・しかし、確実に届く
ということ。
静かに
→ 余計なノイズを立てない
深く
→ 表面で終わらせない
美しく
→ 結果として、品が残る
これは理念ではなく、
日々の仕事の姿そのものです。
水のように、
今日を丁寧に流れていけばいい。
その積み重ねが、
気づけば
人を、衣を、場を、
静かに 深く 美しく
整えていきます。

輝香、小さい時のお前を知っている人たちから、
スッピンの姿に、
奇麗になったねえ…ビックリしました。
お坊さんの姿が輝いてた!!と、
口々に言って下さっていました。
これからですね。