
「学びを止めた人に起きるサイン」
学びを止めた人は、
ある日突然、
道を踏み外すわけではない。
ほんの小さなズレから、静かに始まります。
最初のサインは、とても分かりやすい。
「最近、つまらない」
「なんだか、イライラする」
「まあ、いいんじゃないの・・」
これは運が悪いからでも、
人が悪いからでもありません。
心が“学びを拒んでいる”合図です。
次に現れるのが、
人の話を聞かなくなります。
正確には、聞いている“つもり”になります。
また、相手の言葉を、理解する前に、
頭の中で反論が始まる。
これは心が、「もう変わらなくていい」と
固まり始めた状態です。
三つ目のサインは、
正しさが増える
「自分は間違っていない」
「昔からこうだ」
「それって常識だろう」
この言葉が増えたとき、
学びはほぼ止まっています。
釈尊は、ここを一番危険視しました。
正しさは、自分を守る鎧になりますが、
同時に、心を閉じる壁にもなります。
そして最後のサイン。
人の成長が、気に障る。
若い人、素直な人、
学び続けている人を見ると、
なぜか落ち着かない。
これは、「本当は自分も学びたい」
という心の声を、
聞こえないふりをしている状態です。
ここまで来ても、救いはあります。
学びは、
本を開かなくても始められるからです。
・人の話を、最後まで聞く
・一度、自分の正しさを脇に置く
・今日の出来事に「教え」「学び」を見つける
これだけで、
調律はゆっくり戻り始めます。
学びとは、
常に前に進むことではありません。
固まった心を、もう一度ゆるめること。
それができた瞬間、
人はまた、静かに、自然に育ち始めます。
※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。
今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。
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「上善如水」エッセイ
自己を律するという、いちばん根の深い修行
人は、言葉では立派なことを語れる。
理想も、正論も、学びも、いくらでも知識で身につけられる。
だが、生きる姿勢は、語った分だけ育つものではない。
その人の本当の在り方は、
もっと低いところ、
もっと汚れたところ、
誰も見ていない場所に現れる。
トイレ掃除は、その象徴のひとつだ。
道具を使えば、汚れは落ちる。
だが、素手と雑巾で向き合う行為には、
単なる清掃を超えた意味がある。
汚れを避けない。
嫌なものから目を逸らさない。
自分の生活の裏側を、自分の身で引き受ける。
これは美徳の話ではない。
生きる覚悟の話だ。
人は、汚れから逃げる癖を持つと、
やがて都合の悪い現実からも逃げるようになる。
逆に、触れたくないものに手を伸ばす経験を積むと、
心の足腰が静かに鍛えられていく。
君津工房での修行とは、特別な場で行うものではない。
日常の中で、
「やらなくても困らないこと」を
あえて疎かにしない姿勢こそが君津工房での修行だ。
生活習慣も同じだ。
起き方、掃除の仕方、食べ方、言葉遣い、
身の回りの整え方。
どれも派手ではない。
評価もされにくい。
だからこそ、
そこに人の本音が出る。
人は、自分を誤魔化すことに慣れると、
いずれ良心の声が聞こえなくなる。
そして、何が正しいのか分からないまま、
外に答えを探し始める。
自己を律するとは、
自分を縛ることでも、
我慢を重ねることでもない。
「これでいいのか?」と流してしまう自分を、
静かに見つめ、
一歩引き戻すこと。
誰に見せるでもなく、
褒められるでもなく、
ただ淡々と基本を守る。
その積み重ねが、
人の中に“揺るがない軸”を育てる。
人は、
苦しい時に本性が出る。
追い詰められた時、
その人が何を選ぶかは、
日常の姿勢の延長線上にしかない。
だから、
立派なことを語る前に、
生活を整える。
遠い理想を掲げる前に、
足元を正す。
トイレを掃除する。
暮らしを丁寧に扱う。
今日の自分を、今日の自分が裏切らない。
それだけで、人は変わる。
静かに、確実に。
君津工房での修行とは、
日常を逃げずに生きること。
それ以上でも、それ以下でもない。
by 日々是実践 法子