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1/4(日)「誕生 新しい年に生まれ直すということ」

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「誕生」――新しい年に、生まれ直すということ

 

昨日もお話ししましたが、

新しい年を迎えると、

私たちはつい「何か新しいことを始めなければ」

「変わらなければ」と思いがちです。

 

けれど仏教でいう誕生とは、

何かを付け足すことではありません。

 

それは、

余計なものを手放した先に、

自然と立ち上がってくる“本来の自分”に

気づくことです。

 

赤ん坊は、

肩書きも、評価も、比較も持たず、

ただ息をし、泣き、眠り、そこに在ります。

その姿は、とても完全で、欠けるところがありません。

私たちも本来、そうでした。

 

一年を生きるうちに、

「こうあるべき」「こう見られたい」「失敗してはいけない」

そんな思いを、知らず知らず重ねてきます。

それが重くなると、心は曇り、息が浅くなります。

 

新春とは、

その重なったものを、一度そっと下ろす時です。

 

・できなかった自分

・間違えた自分

・弱さを持つ自分

 

それらを否定せず、

「よくここまで生きてきた」「頑張った」

「ふう~~~」大きな息を吐いて、静かに認めること。

その瞬間、私たちはもう一度、生まれ直します。

 

誕生とは、

特別な出来事ではありません。

今ここで、呼吸が整い、心が戻ること。

 

今年もまた、

派手でなくていい。

いい恰好して正しく見せようとしなくていい。

 

一日一日を、丁寧に息をし、

目の前の人や、ことを大切にする。

 

その積み重ねの中で、

私たちは何度でも、何度でも新しく、

生まれ続けているのです。

合掌

 

※今日で69回目の誕生日を迎えました。

いのちを授けてくれた両親、祖父母、多くの先祖、

ここまで生きてくれた自分自身にワインで乾杯です。

 

※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。

今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。

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上善如水

調律(中道・バランス)という、

69歳の生き方の智慧

 

ここで言う「調律」とは、

悟りの境地を語ることでも、

正解を人に示すことでもない。

 

人が日々の暮らしの中で、

知らぬ間にズレてしまった心や在り方を、

また自然な位置に戻してくれる力。

それを、釈尊は「中道」私は「調律」と呼んでいる。

 

人は放っておくと、必ず偏る。

強くなりすぎたり、

正しくなりすぎたり、

あるいは、諦めすぎたりする。

 

だからこそ、

「戻る道」を持っているかどうかが大切になる。

 

●釈尊の調律は

苦から逃げず、構造を観る。

 

釈尊は、「人生は苦である」と説いた。

しかしそれは、悲観ではない。

苦しみが生まれる理由を、

感情論ではなく、構造として見抜いた。

怒りや不安に飲み込まれそうな時、

誰かのせいにしたくなる時、

一歩引いて、自分の内側を観る。

つまり「内観」道だ。

 

この「内観道」は真宗の水野秀法先生に

手ほどきを受けて一か月間泊まり込みで学んだ

ことがある。

それ以来、自然と日常生活や仕事の中で

常に自身を客観的に内観する癖がついていった。

 

釈尊の調律は、

感情が荒れた時に、静けさを取り戻す働きである。

 

●老子の兆(きざし)の調律は

大きく崩れる前に気づき力を抜く

 

老子は、完成形を語らない。

語るのは、まだ形になる前の「兆」。

組織が壊れる前、

人間関係が歪む前、

必ず小さな違和感が生まれる。

 

老子は、

「やり過ぎないこと」「押し通さないこと」

を教えた。

水のように、抗わず、詰まらず、流れていく。

 

老子の調律は、

経営や人間関係に、最も静かに効く働きだ。

 

●道元の調律は

生活そのものを修行にする。

道元は、悟りを特別な場所に置かなかった。

掃除をすること。働くこと。食事をすること。

その一つ一つを、

すでに完成した修行として生きた。

 

特別な言葉も、

派手な実践もいらない。

「ちゃんとやる」ただそれだけ。

道元の調律は、乱れた心を、日常で整える働きだ。

 

●空海の調律は

才能を切らず、活かす。

空海は、人を一律にしなかった。

言葉も、技も、芸術も、

すべてを修行として引き受けた。

現実社会で表現し、創り、導くことを否定しなかった。

 

空海の調律は、

才能と信仰、仕事と修行を分けない。

これは、

現代を生きる人にこそ必要な視点だ。

 

親鸞聖人の調律は

できない自分を、

大きなお慈悲が抱きしめている。

 

親鸞聖人は、

強くなれない人を切り捨てなかった。

努力しても届かない。修行しても乱れる。

それでも生きている、生かされている。

その現実を、そのまま引き受けた。

 

親鸞聖人の調律は、心が折れた時、

逆境や苦難や失敗の時こそ、

阿弥陀様の本願力らよって

人を凛として立ち上がらせる働きである。

 

そして、総合格闘技的な「私の調律」

現代社会は、特に経営の現場では

どれか一つの教えだけでは生き切れない。

 

つまり、

感情が乱れた時は、釈尊。

兆しを読む時は、老子。

生活を立て直す時は、道元。

才能を活かす時は、空海。

心が折れそうな逆境時は、親鸞。

 

結果的に私は、

武道の実践のように

状況に応じて無意識に使い分けている。

 

これは悟りではない。

実践の智慧なのであり、

仏教者として、そして経営者として、家庭人として、

現場で責任を取る一人の人間としての調律なのだ。

 

人は、正しくなろうとして苦しくなる。

強くなろうとして、壊れてしまう。

だから必要なのは、

「正解」ではなく、中心(良心)への戻り方なのだ。

 

今日、少しズレたら、狂ったら、

今日、戻ればいい。

 

変な「こだわり」「囚われ」「偏り」「執着」から解放され

自由自在にこの世を生きる。

 

それができる自然体の人を、

私は「調律がガッツリ効いている人」だと私は思っている。

 

上善は水のごとし。

水は争わず、低きに流れ、

やがてすべてを潤す。

 

生き方も、また同じなのである。

 

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