
「良心と自我」
「自己をならうとは、自己をわするるなり」
〖自我を立て続ける限り、心は荒れます。
自我を一度ゆるめたとき、人は自然に良心に戻ります。〗
人の心の中には、
いつも二つの声があります。
一つは
「こうしたい」「こう思われたい」「負けたくない」
と主張する声。
もう一つは言葉になる前に
「それで、ほんとうにいいの?」
と静かに問いかけてくる声。
仏教では、前の声を自我、
後の声を良心と呼んでもよいと思います。
自我は、とても働き者です。
自分を守り、
傷つかないようにし、
評価を得ようとし、正しさを握ろうとします。
だから自我が強いとき、
心は忙しくなります。
・すぐ反論したくなる
・説明したくなる
・勝ち負けを決めたくなる
・「私は間違っていない」と言ったり思いたくなる
でも、
ここで一つ大事なことがあります。
釈尊は、こんな趣旨のことを語っています。
「怒りや執着は、
自分を守っているようで、
実は自分を焼いている火である」
自我は「守っているつもり」で
心を固くします。
その結果、
一番大切なものが聞こえなくなります。
それが、良心です。
良心は、声が小さい。
大きな主張はしません。理屈も並べません。
「それは違うじゃないか!!」と、
正しさも振りかざしません。
ただ、
一瞬、胸の奥がチクリと痛くなる
それだけです。
・言い過ぎた後の、あの変な感じ
・分かっているのに背いた時の、あの重さ
・誰も見ていなくても残る、後味
それが良心です。
道元禅師は、こんな言葉を残しています。
「自己をならうとは、自己をわするるなり」
自我を立て続ける限り、
心は荒れます。
でも、
自我を一度ゆるめたとき、
人は自然に良心に戻ります。
戻るだけでよいのです。
変わろうとしなくていい。
立派にならなくていいのです。
親鸞聖人は、
自分を「煩悩具足の凡夫」と仰いました。
これは
「私は未熟だ」と
自分を責めた言葉ではありません。
「自我で生きる弱さを知っているからこそ、
阿弥陀さまの慈悲のはたらきを良心が伝えてくれる」
という、
とても正直で、やさしい姿勢です。
良心は、
自我を消そうとはしません。
自我を、敵にも、悪者にもしません。
ただ、こう言います。
「少し、力を抜いていいよ」
「今は、黙ってもいいよ」
「正しくなくても、温かな人でいよう」
自我が前に出ているとき、
世界は硬く狭く暗く見えます。
良心に戻るとき、
世界は少し柔らかく広く明るくなります。
調律とは、
自我を叩き潰すことではありません。
自我が走りすぎたら、
良心の音に合わせ直すこと。
それだけです。
今日もし、心がザワついたら。
正しさを言う前に、結論を出す前に、
一度、胸の奥を感じてみてください。
そこに、
もう答えは在ります。
それが、
あなたの良心です。
本当の答えなのです。
そしてそれは、
誰の中にも
最初から備わっている
仏さまからのはたらきなのです。
合掌
※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。
今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。
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