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5/24(土) 「釈尊と老子の要は常識と道徳だった」

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「釈尊と老子の要は常識と道徳だった」

どんな衣服を着ていようが社会の中で、

その人の行いが静かであり、その心が安定しており、

常識の有る身だしなみであり、自分のストレスの発散

のために他の生き物を傷付けない人は、誰もが神に

仕える神官であり、道徳の有る人であり、真の修行僧

だと言えるのです。

(原始仏典 ダンマパダ10章-142番)

 

信仰や宗教的な修行をする人こそが正しい人だとか、

偉い先生である。などとは言えません。釈尊はそのよ

うな信仰や修行するだけを専念している人間を完全に

否定しています。

 

この項で釈尊は、社会の中で常識を持ちながら生きる

人こそが、真の修行者であり、神官であり、道徳者だ

と断言されています。

2500年も前のインドの社会で、このような発言を

残している釈尊とは、現代社会にも通じる真面目な

常識人であったことが良く分かります。

このアタリマエな言葉は、今でも斬新であり本質を

突いていることに感動を致します。

 

社会の中で、苦しみながらも常識を持って生きようと

する人間こそが、本当に偉い修行者だったのです。

会社で罵倒されながらも、給与を削られながらも、

家庭でも妻に怒られながらでも、心が静かであり、

行動にも常識を守り、身だしなみも普通の人、そして

陰ながら愛情深く生きる人こそが、大いなる存在から

愛される人に成れるのです。

 

ただし、他人や他の動物をイジメルことでストレス

を発散させない人であることが条件なのです。

真面目な主婦でも、家庭内で旦那さんや子どもに強

く当たるようてはダメなのです。表向きは立派な社

会人の顔をしていても、裏で自分のストレスを家族

にぶつけるようでは、まだまだその人のいののちは

幼く未熟なのです。

 

この項の英語の原文では、「道」に生きる人、とい

う表現が成されています。つまり「道徳の有る人」

のことですが、やはり釈尊の言葉には聖者である老子

の影響がここでも散見されます。

ほぼ同じ世紀に生きたと思われます、釈尊と老子と

いう大きな巨人が、二人共に「常識」と「道徳」の

大切さを何度も念を押されていることは真理の要は

愛情心のある「常識」と「道徳」であるとはっきり

仰ってるわけです。

これは今に生きる宗教者や、一般の人たちにも通じ

る重要なキーワードであり、それこそが真実の成長

を起こさせる因子だということなのです。

 

逆に言いますと、新興宗教やスピリチャル、そして

既存宗教の先生に、「常識」と「道徳」の観念が欠

けていると思えば教えがどうであろうと、それ

は非常に忌み嫌うべき人間以下の精神性の人間だと

釈尊は厳しく仰っています。

つまり、「常識」と「道徳」というキーワードが

宗教者や精神世界の先生たちの背後存在の是非を

判断する重要なポイントになるということなのです。

 

社会でも、結婚する相手の判断や、雇用の採用に

見る条件、子どもの教育などにも「常識」と「道徳

+「情け心」が相手にあるか否かを客観的に見る視点

を参考にし下さい。

 

この三点を持つ人は、学歴に関係なく富と仕合せを

呼ぶことが可能です。

本当の真理とは、二千五百年も経過した今の時代で

も十分に通用するキーワードだということです。

 

今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。

皆さんの仕合せを心より念じております。

 

【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より抜粋転載

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日本人の道徳心

「子は親の鏡」

不良とか不肖とか言われる子供が出来る責任は

必ずしも親にあると限らないでしょう。

しかし立派な子供の親はどこか日常の

生活態度に立派なところがあったのだろうとは

言えるのではないでしょうか。

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今日の諺 「一喜一憂(いっきいちゆう)」

【意味】

ちょっとしたことで喜んだり落ち込んだりすること。

または、まわりの状況にふりまわされること。

「喜」は喜ぶ、「憂」は「憂う」ということで、

心配するという意味。

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