「すでに中にいるのに気づけないんだな、これが」
何事にも、こだわらない人。
悟りたいという思いも終わっている人。
物事に疑惑を持たず、有りのままを見る人。
生死という心配も超えた人。
そういう人を私・釈尊は、最高の人間とします。
(原始仏典 ダンマパダ26章-411)
これを読みましても、「ごもっともです」「ああ、そう
ですか」「所詮、私には無理なんで」と多くの人が思わ
れます。
普通の多くの人が、「別に、それでいいじゃん」「悟り?
なんなんそれ?坊さんの問題でしょ」「死んだら死んだと
き。別に死ぬことなんて心配してないし」「そんなこと
より、もっと楽しまなきゃあ!!」という感じで、社会の中
で普通に暮らしています。
あれ?これは釈尊の前記の言葉と同じではないでしょうか?
実は多くの人々がすでにゴールに達して暮らしています。
これは何が違うのでしょうか?
老子はこれと同じことを言っていますよ。
真の成功者も、貧乏な人も、純粋な人間なら同じゴール
に達して暮らしに達した最高の人間だと老子も断言し
ていますよ。この両者の違いは、社会の中で成功したか
どうかの経験の有無だけです。
すると、この項の釈尊の言葉も、前記の最高の人間と私
たちとの違いは、
* コノ世のあらゆることにジタバタしながらも執着を
しない努力をしたこと。
* 悟りを求めて苦労した上で、悟りを開き、そして悟り
をも「こういうことだったのかぁ」と、捨てたこと。
* 何事にも疑問を持つ視点から、苦労しながらも有りの
ままを見て「まあ、いいかぁ」と、受け入れる心境に至
ったこと。
* 生死を心配する心境を超えて、いざとなればちょっと
ビビッても、結局は「ようやったなぁ」と、安心して
死の恐怖を超えたこと。
という求道の有無、経験の有無だけなのです。
困難な求道の上で至った心境と、社会で普通に暮らして成
った心境と、その結果は同じ暮らしをしています。ただ、
経験の有り無しだけが大きく違うのです。
言えますことは、無意識に至った心境と、求めた求道の道
の上で至った心境は、その盤石さに天地の開きが存在します。
何気なく知らずに至ったゴールの心境は、経験を経ていない
ために、刺激があればあっという間に簡単に崩れ去ります。
これは、自力の聖道門も、他力の浄土門も結局は変わりません。
でも知識として、ゴールの理想形を知っていることが自分を
助けます。そういうものだという知識は、大変な苦労の上で
得たものと同じ心境の答えを教えてくれます。
すると、経験の無い人でも悟った人間と同じ心境でいるためには、
その知識を信じるか、信じられないか、だけなのです。
「信仰」の真の意味は、正しい知識・智慧を信じられるか否か、
の「信」なのです。
自分に経験が無くても知識への「信」が"本当に持てれば"、そ
の人はゴールの中で暮らせます。それでも娑婆ではいろんなこと
があり経験するようになっています。
信じる力>経験の年輪と、霊的には言えます。
世の中には変な間違った信仰も多々あります。何を信じるのかは、
結局は自分が持つ縁が同調させます。何が正しいかを議論しても
答えはでません。そんなものではないのです、すべて縁です。
間違いが無いのは、自分の心に神仏が存在することを「信じる」
ことです。それが信じられるかどうか?感じられるかどうか?
南無阿弥陀仏(空)が自身の内に慈悲として至り届いていることを
感じ取るということです。
そうすれば、くそぉ~~~泣けるわい、歓喜の涙がこぼれるのです。
この信は、社会での成功も貧乏も、色々な経験の有無も超えて行
きます。
でも、そうは言われても、自分なんかダメだ、自分が嫌いだ、
自分の中の神仏なんてわからない、と言う人は多いいです。しかし、
どんな人間にも、心の奥底には他人の痛みを分かる「良心」が存在
します。それが神仏の正体なのです。
何も難しく考える必要はありません。その自分の良心に反すること、
自分の良心が嫌がることをしないこと。まず、このことを始めて
みましょう。
仏教においては、信仰の事を「信心」と呼びます。「信心=信じる
心」と歯も自分が主役で選択する心、自主性を感じさせます。
自分の良心(良い心・仏の性質)というものを、まさに仏からたまわる
信心を疑うことなくただただアホウになって仏さまに任せてみましょう。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より一部抜粋転載
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日本人の道徳心
「ものの見方」
「それを自然、宿命、運と呼べ、
これらはすべて同一の神の名である」(セネカ)
自然といおうと、宿命といおうと、
運といおうと、それらはすべて同じものだといっている。
すべてを受け取る側の見方次第だということである。
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今日の諺 「五十歩百歩(ごじっぽひゃっぽ)」
【意味】
少しの違いはあっても、
本質は変わらないということ。
たいして違わないとき。
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