
「この世での全てはただ自分が預かっているだけ」
子供も、奥さんも、父や母も、家の財産や備蓄穀物も、
親類や友人たちも、自分自身に関するどんなことも、
自分の所有欲の対象とするのは止めなさい。
どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.60)
釈尊が家庭を離れたことには、
「家族を捨てた」「責任を放棄した」などという意味は、
まったくありません。
釈尊は、人間はどう生きるべきか、どうすれば苦しみを超えられるのか
その問いを解き明かすために、どうしても歩まなければならない道を
選ばれました。
そしてその道は、
当時の社会の常識や宗教の教えを真っ向から否定するようなものでした。
身分の上下を否定し、
「誰もが平等に悟りを得られる」と説くことは、
王族や僧侶たちにとって危険な思想でした。
だからこそ、家族や一族に迷惑や危険が及ばないように、
釈尊はあえて距離を置き、
自ら孤独の道を選ばれたのです。
しかし、釈尊は決して
「皆も家族を捨てて出家しなさい」とは言っていません。
もし人々がみんな家庭を捨てたら、
この社会は成り立ちません。
人が生きる場所、
家庭や社会、
仕事の場、
そのすべてが修行の場なのです。
釈尊の教えの本質は、
「捨てること」ではなく、
「執着(しゅうちゃく)を手放すこと」です。
執着から自由になる、解放される、これに極まります。
つまり、私たちが持っている
家族、財産、立場、名誉、時間
それらはすべて「自分のもの」ではなく、
一時的に預かっているだけのものばかりなのです。
だからこそ、
「奪われまい」「自分のものだ」と強く握りしめると
苦しみが生まれ、
「ありがとう」「今はこれを預かっている」と感謝して
生きると、心が自由自在になります。
釈尊のように家を出る必要はありません。
私たちは「家庭の中」「職場の中」「人との関わりの中」でこそ、
人間としての修行ができます。
大切なのは、
「これは自分のものではなく、今、縁あって預かっているだけ」
そう心に刻んで、
一日一日を丁寧に生きること。
それが、
現代の私たちができる釈尊の説かれた「真理の道」なのです。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
参考文献【柔訳 釈尊の教え 第一巻】著:谷川太一
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