
「我、神仏を尊びて、神仏に頼らず」
「ああ、これは自我(ワレヨシ)の欲望の対象に成るものだな。
(異性・賭博・不倫・甘い物事・危険なクスリ・・・)
これを楽しんで欲望を発散したとしても、一瞬で終わるだけだ。
もし楽しんだとしても、小さなことであり
長くは続かないことは分かっているんだ。
これがもたらす後からの苦悩と後悔のほうが、
快楽よりも大きいことは分かっている。
これは自分を釣るための大きな釣り針であることを、知っている」
このように真理の知恵を学ぶ者は、
実際にひどい目に遭わなくても避けることが可能になる。
だから賢い人は、どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.61)
釈尊は、
真理の智慧を事前に知っていれば、
世間に在る数々の大小の釣り針
「人をダマす針、陥(おとしい)れる針」
を避けることが可能に成る。
その方法こそが、
* もし、それを体験した場合の後を、「先に」想像しなさい。
* それがもたらす最悪の場合の被害を、よく計算しなさい。
そして、
* それを体験したとしても、一瞬で終わることと、
長くは続かないことを「先に」想像しなさい。
* コノ世に在る快楽は、それがもたらす
後からの苦悩の方が大きいことを知って置きなさい。
* 魚を釣る釣り針は、世間の中で
「人に対しても」常に垂らされている。
このようなことを事前に知る真理こそが、
人に痛い体験をさせずに
涅槃(ねはん:浄土)に導くと釈尊は示唆しています。
「我、神仏を尊びて、神仏に頼らず」
私は常に仏と共に在るという絶対的な自覚と安心。
結局、釈尊は「智慧」と「自分の良心」を信じる
重要性をこの項では説かれています。
日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
参考文献【柔訳 釈尊の教え 第一巻】著:谷川太一
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