
「生きる意味を感じる」
水流の中で魚網に捕まった魚が、
網を突き抜けて川に戻るように、
世間に在る様々なサガ(ワレヨシの自我・性)への
執着を断ち切りなさい。
そして過去に自分の執着心から、
自分のサガの炎が焼き払った場所・相手に
留まることが無いようにしなさい。
どんな交わり、集団の中に自分が居ましても、
自分一人で歩く覚悟を持ちなさい。
まるで1本角(ツノ)が立つサイのように一人で歩みなさい。
(原始仏典 スッタニパータ 第1章3節-No.62)
よく人は、
「自分の生きる意味を見つけたい」と言います。
でも実は、
生きる意味は最初からどこかにあるものでは
ありません。
仏教では、
「縁起(えんぎ)」という考え方があります。
すべての出来事は、
無数のつながりの中で生まれている。
つまり、
私の命も誰かや何かとの関係の中で今ここに
あるわけです。
だから、
「生きる意味」は、
誰かと関わりながら、
毎日の小さな出来事の中で、
少しずつ何かを育てていくものなんです。
社会では
「意味のある人生=人の役に立つこと」と
思いがちです。
もちろん、
それは素晴らしいことです。
でも、
仏教はこう言います。
「自分の心が今、
どのように動いているかを見つめなさい。」
たとえば、
・朝の光がきれいだなと思った。
・誰かの優しさにふと涙が出た。
・自分が誰かを笑顔にできた。
・あの音楽が心の窓を開いてくれた。
それら一つひとつが、
「生きている意味」そのものなんです。
“役に立つ”ことも大切な事ですが、
“心が動く”瞬間を大切にすることです。
そこに、その人のいのちが輝いています。
仏教の教えの中に、
「念(ねん)」という言葉があります。
「今、この瞬間を心に留める」という意味です。
つまり
過去を悔やまず、未来を焦らず、今ここを大切に生きる。
今日のこの瞬間、目の前の人にホッとする笑顔を向ける。
落ちているゴミを黙っってそっとひらう。
それだけでも、
十分に「意味のある生き方」なんです。
「生きる意味」とは、
誰かが教えてくれる“正解”ではありません。
それは、生きていく中で、
あなた自身の心が紡いでいく物語です。
どうか焦らず、
今日の一歩を、丁寧に踏みしめてください。
その一歩の中に、
すでに「生きる意味」は息づいています。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
参考文献【柔訳 釈尊の教え 第一巻】著:谷川太一
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