
「何かを学ぼうとする姿勢がある限り
人は必ず救われていく」
私たちは、
学校を卒業すると「学びは終わった」と、
どこかで思ってしまいがちです。
けれど実際の人生は、そこからが本番です。
仕事、お金、人間関係、家庭、体調、老い。
どれも教科書には載っていません。
それでも、毎日必ず“問い”がやって来ます。
ここで釈尊の教えは、とても静かです。
「学びとは、知識を増やすことではない」
「自分の心の動きを、見失わないこと」
うまくいった日も、失敗した日も、
腹が立った日も、落ち込んだ日も、
それらはすべて、「人生からの教材」です。
調律が整っている人は、失敗を“恥”にしません。
成功を“驕り”にもしません。
ただ、こう受け取ります。
「今日は、何を学んだのだろうか?」
この問いを持ち続ける限り、人は年齢に関係なく、
常に“今が一番新しい自分”でいられます。
学びをやめた瞬間、心は固くなり、
世間的常識や正しさで人を裁き始めます。
学び続けている人の心は、柔らかく、
人の話が入る余白があります。
それが、調律された人の静かな美しさです。
一生学ぶとは、一生、未完成であることを、
未熟であることを、喜べる心を持つことです。
完璧を目指さず、昨日の自分より、
ほんの少し、丁寧に生きる。
それだけで、人生は確実に整っていきます。
※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。
今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。
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上善如水エッセイ
決意と覚悟
二十年前、
長松寺の法座を終えた後は必ず、
私に一登園の石川洋先生より
人としての道を深くご教示いただいたことを
よく思い出す。
その一つが「決意と覚悟」の違いだ。
「決意」と「覚悟」は、よく似た言葉として使われる。
けれど、この二つはまったく別の次元にある。
決意とは、
「やろうと思う心」
「こうなりたいという意思」
頭と感情がつくるものだ。
一方、覚悟とは何か。
覚悟とは、
失うかもしれないものを、具体的に引き受けること
である。
時間、信用、お金、立場、安定、
時には人間関係や、これまでの自分自身。
覚悟には、必ず「代償」が伴う。
代償のない覚悟は、ただの決意にすぎない。
人は決意なら、いくらでも語れる。
しかし覚悟は、言葉では語れない。
なぜなら覚悟は、口に出した瞬間に軽くなるからだ。
覚悟は、
追い詰められた時に
逃げ道を失った時に
それでも一歩を出すかどうか、
その「足の動き」にだけ現れる。
だから、
覚悟は教えることができない。
説明して理解させることもできない。
人は痛みを通らなければ、
本当の意味では気づかない。
しかし、
すべての体験が人を育てるわけでもない。
同じ体験をしても、
人のせいにする人もいれば、
環境のせいにする人もいる。
覚悟に至る人は、
痛みを「自分の問題」として引き受けた人だけだ。
仏教でいう「覚」とは、
何かを知ることではない。
逃げずに観た、という事実そのものだ。
決意は、未来を語る。
覚悟は、現在を引き受ける。
だから覚悟のある人は、
大きなことを言わない。
むしろ静かになる。
静かな人ほど、
すでに腹が決まっている。
もし今、
「決意はあるのに、前に進めない」
そう感じているなら、
それは自分が弱いからではない。
まだ、失う準備が整っていないだけだ。
覚悟は、
準備ができた者のところに、
自然と訪れる。
いや、自身の良心が
「覚悟」を引き寄せると言っていい。
「覚悟」は無理に作るものではない。
ただ、逃げないこと。
それだけで十分だ。