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「幸福とはすでに自分にある有り難さに気づくことです」3/11(月)

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城壁の門の柱は、

地下深くまで打ち込まれており、

四方からの風圧にもびくともしません。

尊い四つの真理である

四識を理解し、自ら心がける人は、

城壁の門の柱のように

びくともしないことを、

私は断言します。

この優れた真理は、

集団で学ぶ社会の中でこそ生きます。

この真理により、幸福でありましょう。

[原始仏典『スッタニパータ』

第二章第一節-二百二十九番]

 

仏教の根本理念である「四諦」とは、

「四つのあきらめる方法」でもあります。

 

⑴人が生きるということは、

「苦」であるという真理

⑵その苦の原因は、

人間の「執着」にあるという真理

⑶この苦を滅した境地が、

「悟り」であるという真理

⑷その悟りに到達する方法が、

「仏道」であるという真理

 

人の苦しみの原因のすべては

「執着」から起こると

釈尊は指摘します。

だから、「何事にも執着しなければ、

苦しみは発生しない」と断言します。

 

*恋愛も、どうしてもあの人だけ、

という執着から苦しむことになる。

*貧乏も、カネが欲しいという

執着から苦痛になる。

だから貧乏ならば、

貧乏の中で楽しめば天国。

他者を見ません。

*病気も、どうしても治す

という執着を持てば焦り苦しい。

病気と同行二人、病気と共に

歩む覚悟をもって、

その中でも楽しむ視点を持つこと。

 

では、何でもあきらめれば、

本当に苦痛は去るのか?

ここで勘違いしてはいけないことは、

「あきらめる=何もしない=努力もしない」

では決してありません。

 

*自分ができる最善の努力をしながら、

その結果には執着しないこと。

*あきらめた上で努力したほうが、

脱力した本当の自力が出て、

未知の他力が働きます。

*すべてをあきらめているほうが、

冷静な視点で物事を見て騙されません。

 

問題は、あきらめている人間は、

実際には何もしないのではないでしょうか?

あきらめているのに、

人は努力など本当にするのでしょうか?

ここが個人差が出る点であり、

運命の分岐点となります。

 

本当に地獄を見た人は、

真から苦しんだ人は、あきらめた上で、

自分ができる努力をすることを自然とします。

だから、まだ中途半端な苦しみの人は、

すべてをあきらめて放棄して、

何もしない地獄の時期を過ごした後に、

次の心境を理解することになるでしょう。

 

釈尊は、「四諦」を通じて、

何もしないというあきらめではなくて、

あきらめた上で仏道に専心することが、

人を真に幸福にするとします。

それは、城壁の門の太い柱のように、

揺るがない人間にすると断言されています。

 

ここで思い出す言葉は、宮本武蔵の言葉です。

「仏神は貴し 仏神は頼まず」

(私は神仏を尊んで拝むが、

神仏に頼ることはしない。

最晩年の書「独行道」より)

 

これを四諦で解釈すれば、

*努力はするが、その結果に執着はしない。

*すべてをあきらめた上で、

自分ができる最大の努力をして生きる。

 

霊的には、あきらめた上で最大の努力をすることは、

自我(我良しの思い)からの

妨害を防御する意味でも、

自分の生霊のムダな漏電を軽減させる意味でも、

非常に有効です。

これは最善の結果を呼びやすくなると言えます。

 

皆様の参考になれば幸いです。

 

「柔訳 釈尊の教え 第三巻」

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