食べ物を控え目に節制して、
その人の霊的な穢(けが)れが浄化して、
その人の心が無心(空)の心境に在り続けるならば、
その人が存在した痕跡を知ることは難しく成ります。
それはまるで、大空を飛ぶ鳥の軌跡が見えないようにです。
(原始仏典 ダンマパダ7章-93番)
自分なんて、社会の隅に目立つことも無く、
今自分が消えても誰も気付かないし、誰も悲しまないだろう。
と、現代社会では思う人が多いことでしょう。
その一方で、社会の成功者が肖像画を会社に残したり、
自分の銅像を多くの人々の目に触れる場所に残したりします。
では釈尊の理想とする真に悟った人とは、
どちらの人物に近いのでしょうか?
「その人が存在した痕跡を知ることは難しく成ります」
と釈尊は答えています。
つまり、誰にも知られることもなく、
陰で淡々と真理と共に生き、ひっそりと死んで行く人の中にこそ、
真に「尊い人」が存在すると仰っています。
この項から釈尊が伝えたいことは、自分は一人であり、誰にも無視され
ているからダメだと思わないで欲しいということです。
むしろ真理の視点では、その方が身軽で理想に近いのです。
ただし、釈尊は「その人の心が無心(空)の心境に在り続けるならば」
としています。つまり、気づけば執着心から離れて(承認欲求)、コノ世
の陰に居て決して目立つことなく真面目に日々を生きる姿こそが、それ
が正解であり真のこの世の勝利者なのだと仰っているのです。
実は、本質の部分で分かっているのか、社会で「成功した」人には
無名や表舞台に出たがらない人が本当に多いのです。今の情報社会ほど、
誰にも知られないことはさらに良いことです。
変な人や組織も近寄ってきませんし、さらには怪しい宗教や精神世界の
集会に誘われることもありません。
それよりも一人でもいいから、何の組織にも属することなく、真理を分かち
合え、感謝一本道を生きる法友がいればいいのです。真理を生きる歓びと
共に、明るく自分なりに生活する自分自身の道を一本角のサイのように
楽しみましょう。
今日もより良く生きる智慧を与えて頂いて有難うございます。
皆さんの仕合せを心より念じております。
【柔訳 釈尊の言葉第一巻】著:谷川太一より抜粋転載
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日本人の道徳心
「福運を招くもの」
勝負の帰趨(きすう)はそのときの運に左右される。
運というのはあるのかないのか、
あるようでもあるし、ないようでもあるが、
なにがしの気配が働いて運を左右するということはありそうだ。
そのなにがしの気配を働かせて
福運を招き寄せるものはなにか。
結局、そういう目に見えないところでの行為、
目に見えないところで尽くす誠実、
といったものなのではないでしょうか。
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今日の諺 「天真爛漫(てんしんらんまん)」
【意味】
かざらないで、ありのままの姿でいること。
純真で明るくむじゃきで、こだわらない様子。
「天真」は天からあたえられた自然のままの姿のこと、
「爛漫」は自然に光り輝く様子。
【由来】
昔の中国の書物『輟耕録(てっこうろく)』の中で、
絵画をほめる言葉として使われている。
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