
調律という生き方
釈尊の教えを、ひと言で言うなら
「人生は、整えるものだ」ということです。
私たちはつい、もっと良くなろう
もっと強くなろう、何かを得よう・・とします。
しかし釈尊は、
「足すこと」よりも「狂いを直すこと」を説きました。
楽器もそうです。
音が出ないからといって、
弦を増やしても美しい音にはなりません。
張りすぎた弦を、少し緩める。
緩みすぎた弦を、静かに締める。
それが「調律」です。
仏教では「中道」と言います。
仏教で言う「修行」とは、
我慢大会でも、立派になる競争でもありません。
●怒りに引っ張られすぎていないか
●欲に飲み込まれていないか
●恐れで心が固くなっていないか
そのズレに気づき、元に戻すこと。それだけです。
釈尊が見ていたのは、「正しい人」ではなく、
「元の音に戻れる人」でした。
失敗してもいい。乱れてもいい。
人は生きていれば、必ず狂います。
大切なのは、狂わないことではなく、
本来の音に戻れること、です。
怒ったら、戻る。
欲張ったら、戻る。
不安になったら、戻る。
これを繰り返す生き方を、
仏教では「智慧」と呼びました。
悟りとは、
特別な境地ではありません。
日々、静かに調律し続けている状態。
今日も音は揺れます。
だから今日も、整えればいい。
それで十分です。
※人を育てているのは、環境ではありません。
自分自身の良心(仏性)に、どう向き合っているか、その態度です。
今日一日、自分の良心(仏性)に恥じないか。
その問いを胸に、静かに生きてまいりましょう。
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上善如水エッセイ
・・・やり切ったいのち・・・
昨日、
T先生の悲報を園長から聞いた。
当分、言葉にならないぐらいショックを受けた。
あの底抜けに明るい笑顔を思い出す度に、
また、
「理事長先生、園内研修受けたくて待ってました。
今日は直接聞けるんで、ものすごく嬉しいです」と、
無邪気な子どものように、
いつも園内研修を心底喜んでくれていた。
今日はT先生のお通夜。
そして明日は葬儀である。
私は会社の仕事で抜けられないので、
昨日の夜、自分の気持をしたためた弔電を送った。
彼女は、
小学校に通う男の子三人とご主人を残して
急に旅立った。
この事実を思い、
彼女の気持ちを考えるといたたまれなかった。
ただ、
私は仏教者だ。
仏教者として
釈尊にT先生の死について問うことにした。
すると、釈尊は
「命の終わりの理由を、
どんな理由が有ろうと他人が憶測してはならない」と、
はっきりと仰る。
なぜなら、
*命の長さ
*死の時期
*残された縁の形
これらは、善悪・努力・愛情の量とは直結しないからだ。
それよりも、
T先生は「やり切ったいのち」だった。
この世のいのちが長かったか短かったかは、
この世の時感覚であって、いのちの側から見れば、
*子どもたちに命を残し
*多くの子どもを照らし
*まことの保育を体現し
*保護者や、子どもたちや、職員や、
人の心に確かな灯火を残した。
彼女は十分過ぎるほどの仕事を終えている。
じゃあ、
残された3人の子どもたちや御主人はどうなのか?
不幸ではないのか?
いいや、不幸ではない。
むしろ、
*深く愛された記憶
* 本物の背中
* 命をかけて生きた親の姿。そして妻の姿。
これらは、
言葉より強い゛いのちの遺言゛に成る。
親の死がその子たちの人生を壊すこともある。
でも同時に、
3人の兄弟たちが力を合わせて人生の強い芯
を作ることもある。
「不幸な因縁」ではなく、「引き受け合った縁」
誰が悪いでもない。誰が足りていないでもない。
ただ、
* この形でしか生まれない学び
* この別れでしか開かない心
* この痛みを超えた先でしか育たない命
それが、
静かに配置されていた。
そう見るのが、一番澄んでいる。
私が彼女の事を思い
こうやっていろんなことを考えていることが
実はT先生への「最高の供養である」と釈尊は
仰る。
つまり、
答えを作らなくていい。意味を決めなくていい。
ただ、
よく生きた。
よく尽くした。
よく愛した。
よく笑った。
それだけを、胸に置いて合掌すればいい。
今は、それで十分なのだ、と。