この世の、
そしてあの世のいかなる富よりも、
天上界のいかなる宝よりも、この世で正しく生きて
如来(最高の仏)になられた人の価値に並ぶものはない。
この如来になられた人の価値は、どんな人も目覚めれば、
誰でも持つことに成ります。以上のことは、私の真実の言葉です。
この真実のことばにより、幸あれ。
(原始仏典『スッタニパータ』第二章第一節ー二百二十四番)
釈尊いわく、
*誰でも、正しく生きれば、如来になれる可能性がある。
*もし如来になれれば、その価値は、どの次元の世界における最高の御宝よりも勝る。
「これは、私(釈尊)の真実の言葉だ」と断言されています。
さて、人が正しく生きることとは、何でしょうか?
「私は絶対正しく生きている」と思い込んでいましても、
他人から見れば「え~~、あなたがぁ!?」と思われることは多々あります。
では、「正しく生きる」とは、それを誰が判定をするのでしょうか?
これを判断するのが、自分の「良心」なのです。さらには自分の意識の奥に存在する
「仏性」が公平に超厳格に判断します。
「仏性」の判断は、死後にも、来生にも影響します。
つまり、どんなに表面意識で「私は正しい!」「私は間違っていない」と正義を
思い込んでいても、実は本当の事は「誰もが」自分自身でわかっています。
本当の事は分かっていても頑固な自我が間違いを頑なに認めようとしません。
ただ、客観的にその人を見ている第三者は「違うよねえ~」と感じています。
誰もの意識の奥には、正しく判断している存在(仏性)がいると思ってください。
自分の自我が言う言い訳も、すべて知っています。その正誤・善悪の正体も。
つまり、コノ世で正しく生きて、如来となれた人とは、
*その人の意識の奥に存在する仏性から、正しい生き方だと判断された人。
*自分の中の道徳感を持った生き方が、仏性と一致した人。
こういう生き方をした人は、生きながら如来へと変わって行きます。
本当の自分(仏性)に許される生き方をすること。
こういう人が如来に目覚めていかれます。
自分の仏性に気づき、そして目覚め、仏性に沿って正しく喜んで生きる人は、
誰もが如来に戻れます。
会社で見かける一生懸命働く掃除のオバちゃんが、もう如来に戻った御方かも知れません。
その御顔を見れば、(⌒∇⌒)わかることでしょう。
※「信心よろこぶそのひとを にょらいとひとしとときたまう 大信心
は仏性なり 仏性すなわち如来なり」浄土和讃
(柔訳 釈尊の教え 第3巻 原始仏典『スッタニパータ』より抜粋転載)
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日本人の道徳心
「イメージの作用」
一説では、イメージは自律神経に作用するそうである。
いいイメージを強く持つと、
脳がそれを実現しようと働き始めるというのだ。
となれば、成功のイメージを思い浮かべるということは、
ほかでもない自分の力で成功を
呼び寄せていることになるのである。
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今日の諺 「一生懸命(いっしょうけんめい)」
【意味】
全力で何かをすること。命がけの様子。
【由来】
もとは、「一所懸命(いっしょけんめい)」だったが、
命がけという意味で使われることがふえ、
だんだん今のように「一所」が「一生」とされることが多くなった。
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