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2012年 3月

vol. 3350
『みんな「みなしごハッチ」だった』  (2012/3/31 [Sat])
人間が持つ、安心できない心、いつまでたっても満足できない心、
理由のない飢餓感、異性や他人を求める心……これらの原因は、
自分の心が幸せの仏様(良心、母性)から離れていることにあります。
誰もが、本当の母親(幸せの仏様)から
生き別れた孤児(みなしごハッチ)なのです。


人類が生まれてくる大目的は、生きている間に、
自分の心にいる本当の母性(仏様)に出会うことでもあります。
自分の内にいる幸せの仏様に気づく深さが増すほどに、
先の欲求はだんだんと消えていきます。
そして、安心した心となるのです。まるで大きな母性に、
いつもつつまれた心境でいられます。
ところが、これに気づくのがむずかしいのです。


子育ては、親自身の母性を大きくして、
親が自分の母性(仏)に気づくための行為です。
育てられる子供は、親から母性の
片鱗を疑似体験する学びを与えられます。
親も子どもも、ただの親子関係だけではなく、
その先に各人が母性を(仏)意識することが本当の目的なのです。
子どものころから自分に内在する母性を意識できる教育をされると、
その子どもが成人するころには、
愛情深い良い成人(聖人)になれる可能性が高いです。


では、どんな教育が有効でしょうか?
生き物や植物を育てるのは、とても有効です。
そして、それらの死を体験することにより、
この世での現実と肉体(物質)のはかなさを認識していきます。

もうひとつは、他人への「思いやり」「相手の立場に立つ」
心を育てる教育が大事です。
今の新卒社員が役に立たないのは、
他者への思いやりの欠如が大きい面があります。
会社の仕事は、次の工程への段取りが大切なのです。
自分の分担だけを終わらせればいいという意識の人間がいますと、
全体では仕事が完了しないか、
後で大きな問題となることがあります。
自分の仕事の後作業をする人間を配慮した仕事ぶりが大切です。


このような、思いやり心の強い人間が多い会社や国は、
発展します。売れる商品やヒントも、
「思いやり」からドンドンと生まれます。
思いやり=母性、つまり仏の心だからです。
国も「ゆとり教育」よりも、「思いやり教育」をすれば、
社会で本当に役に立つ人間を増やすことができます。


男女ともに、自分の中に母性(幸せの仏様、良心)を
意識することが大切です。意識しない物事は起こりがたいのが、
この世の法則なのです。だから、大きな流れに逆らわずに、
日常生活の中で自分の母性を意識する視点を持ちましょう。
そうすれば、日常生活のいろいろなことが流れ出し、心の成長も早まります。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より


vol. 3349
「思いやりのある人間が増えれば会社も国も発展します」  (2012/3/30 [Fri])
人間は自分から泥の中にいながら、そこから出ようとしていません。
泥の中にいれば、必ず泥(=悩み)に接触します。

泥の中にいながら、自分の周りに泥よけの囲いを造ったり、
泥を手で押しのけようとする行為が、
宗教的な行法や占術などだと言えます。

でも、それらでは絶対に泥を避けることはできません。
必ず泥がつきます。要は、「自分で」泥沼から出るしかないのです。

では、どうすれば良いのか?
自分自身が、「欲しがる」「避けたがる」「逃げたがる
」「楽をしたがる」から苦しいのです。そうではなく、自分から、
「与える」「情けをかける」「思いやる」「気配りする」
だけの視点で生活をすれば良いのです。

そうすれば、「自分の立場」と言うものが薄くなります。
つまり、自我が薄い状態です。自我が薄いと、
悟りの方向に自然と向かいます。
人間は「与える」だけの視点を持てば、悟り(解放)に至るよう、
仏様によって仕組まれているのです。

悟りを求めて一人何も成さずに座るだけでは、
真の悟りは絶対に訪れません。逆に言えば、真の悟りには、
自分が与えるべき他人が必要とも言えるのです。

いろいろとある家庭や社会生活こそが、
自分自身に悟り(泥沼からの脱出、
悩みからの解放)を提供する場所なのです。
自分の隣にいる嫌いな人や苦手な人は、
悟りに師匠かもしれませんね。まさに気づきを伝授してくれる人です。

人間は自分自身が持つ慈悲(=情け心)によって、
自分が救われるのです。欲しがる間は、
この世の欲しいものは与えられません。
一見は関係のない慈悲心を持てば、何でも与えられるようになります。

思いやりを持つ実践をして生きましょう。


伊勢白山道著
「生かしていただき ありがとうございます」より

vol. 3348
「自分の心を配って生きれば人生が変わります」  (2012/3/29 [Thu])
人生とは、思いやりの心、他への情け心、
感謝を思い出す旅でもあります。

これを忘れていると、自分自身に思い出させるように
環境が流れる法則があります。他人から思いやりを受けて、
自分が思いだすのか?
他人から突き落とされて、逆に思い出すのか?


自分が感謝する心を失くして、周りが離れた結果、
自分に足りない物事を思い出すのか?……と、
いろいろなパターンがあります。

日ごろから自分の気持ちを配る心を忘れなければ、
いやな経験をしなくても済みますし、
たとえ嫌な目にあったとしても、助けてくれる人が現れるものです。
自分の心がけひとつで人生は変わるのです。未来は白紙です。
今の連続が、未来を形成するのです。今の心境を大切にしましょう。
それが自分の未来を創造(想像)するからです。


自分が人生を歩いてきた道を振り返れば、
1本の道になっています。その途中には、選択肢がありました。
そのときの自分の心境が選んでいるのです。

これから先にも、多くの選択肢が控えています。
だから、今の心境が重要なのです。
未来を選択させる因縁となるからです。


未来に選択肢などはなく、今まで歩いてきたのと同様に、
1本の道がすでにある、なんて考えてはいけません。

今の心境しだいで、未来は簡単に曲がっていくのです。
だから生きている間は、
分ができる最善の努力が絶えず必要なのです。
今の心境に感謝の気持ちを持てれば、今までの過去じゃ、
それでよくなります。大成功だったと言えます。

つまり、今の心境が、過去の是非を決め、
これからの未来をも決めるのです。今の心境が非常に大切です。

今の心境には、「生かしていただいて ありがとうございます」
の気持ちが最善です。この気持ちを持ちながら、
目の前の物事に打ち当っていきましょう。
パッション(情熱)が大切なのです。

この気持ちが持てないのは、まだ自分が無知だからです。
周りからの恩恵に自分が気づけていないからです。
無知は、罪を生みます。自分自身が他人を誤解しますし、
他人には誤解を与えてしまいます。

現状に感謝をすることができれば、すべてがもったいなく思えてきて、
もっと頑張ることができます。そしてさらに向上するのです。

伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3347
「ご先祖様や仏様に感謝するのも愛情表現のひとつです」  (2012/3/28 [Wed])
私たちは社会の中で生きていると、自分が生きるのに懸命なゆえに、
自分が持つ愛情や思いやりを縁ある人々に表現するのがヘタです。

形にしたところで気恥かしさがありますし、
他人の視線や受け取り方を気にしがちです。

特に日本人は、そのような表現が苦手なように感じます。
でも、人間は何か日々の生活の中で、
他への愛情や思いやりを表す行動を、
忘れないために形にしたほうが良いと思います。

仕事や家庭の中で誠意を持って人に向き合うのも
大切な表現のひとつですが、理解されるのに時間を要しますし、
誤解を与える場合もあります。

父親などは、家族のためにと秘めた思いで仕事を頑張っていても、
家族には煙たく嫌な存在になっている場合があります。
父親がいなくなって初めて、父親の思いの
ありがたさが理解されることもあるでしょう。

日本の職人は、教えを細かく受けずに「見て学べ」と
よく言われます。それには最初は時間がかかりますが、
本人の個性を持ちながら自然と身につけることが、
将来的にオリジナリティを持つという意味があると思います。

最初からマニュアルで細かく型を押すように学ぶと、
本人の持ち味が消えてしまい、時間が経過しても
規格的なことしかできない感じがします。
要は本人が伸びないのです。

毎日、もの言わぬご先祖様に対して、
数分でも行動と感謝の思いを捧げることは、
自分の愛情と思いやりの行為を表現する練習となります。
無言の相手に対して、自分なりに行うことに意味があるのです。
無言の相手に対して継続できるということは、
「自分自身を見つめていること」でもあります。

これを続けますと、自分の中の愛情=幸せの仏様が、
必ず表面へと表れ始めます。自分で日々実践した行為は、
幸せの仏様へと至る自分オリジナルな道へと誘導します。
職人が自分で見て学ぶがごとく、心の高みへと行くことができるのです。

このときに道を間違わないための灯明は、
「生かしていただいて ありがとうございます」
の心境で進むことなのです。
他人が決めた細かい道は、遠回りで危険なケモノ道です。
自分の生活の中で、感謝の思いを置いていきましょう。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3346
「相手の立場に立って考える「想像力」が思いやりの原点です」  (2012/3/27 [Tue])
田舎には公共機関が管理するゴミ捨て場があります。
ゴミを持参すれば休日も引き取っていただけます。
そこにいる職員は公務員ですが、近年は人件費の節約の為に、
近隣に住む高齢者をアルバイトで雇っていることもあるようです。


先日、私の近所の方が休みの日にゴミを捨てに行かれたのですが、
初めてだったので入口を間違えてしまったそうです。
そのとき、職員からひどい言葉で罵倒されたようです。
黙って帰ってきた隣人は、三日間は心に嫌な思いを引きずり、
何をしても面白くなかったといいます。


隣人は他人から受けた一言に、三日間の自分の生活と、
健康にもよくない影響を受けたのです。
これは心の中の幸せの仏様にも善くないことです。


同じ言葉を言われても、笑ってスルー出来る人と、
スルー出来ずに引っかかる人がいます。
もし、私が同じ事を言われれば、笑ってスルー出来るでしょう。
このような相手への免疫は強いと思いますから。


それは何故かといいますと、私には相手の立場になり変わる
想像力が少しだけあるからです。

「仕事とはいえ、休日に安い賃金でおもしろくないのだろうなあ」
「こんなささいなことで怒鳴るならば、家でも外でもストレスばかり
受けて気の毒な人だなあ」

などと思いながら怒る相手を見ますと、
冷静に受け止めることができやすいからです。

会社でも、理不尽に怒る上司がいても、
その人の立場を思いやると、私は腹が立たないことが多いです。
「無理もないなあ」と、逆に気の毒に思えることさえあります。


みなさんも生きていれば、いろいろと他人の
一言に傷つけられることがあるでしょう。
そんな時は自分が相手の立場になり代わる「想像力」が大切です。


自分が相手の立場に置き換えることができる人は大丈夫です。
これができれば、問題は解決しているとも言えます。


置き換える事ができれば、次に「思いやり」が自分自身にでてきて、
物事を解決する知恵が浮かぶのです。

相手への「想像力」が「思いやり」を生み、
改善させる「知恵」と「機会」を呼ぶのです。

想像力は人類が持つ、特別な力の一つです。

他人への想像力が創造力を呼び
人類を破滅から発展へと導くことでしょう。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より


 

vol. 3345
『愛情は「与える」一方で良いのです」  (2012/3/26 [Mon])
社会の中で、人付き合いに悩む人が多くいます。
他人からの反応をとても気にしてしまうのです。


このような人は、相手の反応や見返りを気にせずに、
自分自身の誠意の気持を「与える」一方の
存在であろうとすることです。


お金や物を配るのには限界がありますし不要ですが、
自分の気持は無限に配る事が可能です。


付き合って気楽な人には、友人が多いものです。
他人の反応をいちいち気にしている人は、
他人から見ると何かと気づかいが必要な人物に見えます。
やはり自分と縁があって出会う他人は、
自分自身を映す鏡なのです。


自分が与える一方の存在に慣れれば、氣楽なものです。
敵などいません。もし意地悪をする人がいても、
「関わってくれて、ありがとう〜♪」
と思っていれば良いのです。

この心境が、一番効率の良い反射を相手に返します。
相手の悪意が強いほど、相手は自分自身の悪意に被爆します。

この世では、与える一方の愛情の強い人が、本当に強いのです。

考えてみますと、太陽は「与える一方の存在」です。
月は引力を作用させるように、何かを「引き上げる存在」なのです。


太陽のような人物になることが、人間が生まれてきた真の目的です。
月のように何かを欲しがる亡者のような人間になってはいけません。


これから人類は、太陽族と月族に二分されていきます。
与える族と搾取族に分かれるともいえます。


これはもうすでに、社会の中で始まっています。
月に対して自分の欲望を祈願するなどは、
超高性能なレーダーに対して自分の存在位置を
記録させることになります。
月からの引力により、生命力も金も吸われるのです。


太陽のように明るく愛情深い、
与える一方の人間を目指しましょう。
月に引かれるような行為をして来た人も、
これからは太陽のような行動で生きれば大丈夫です。



伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より


vol. 3344
「目の前のことに愛着を持てる「愛情力」を育てましょう」  (2012/3/26 [Mon])
社会で生きていくには、いろいろな資格が必要なものです。
サラリーマンならば、持っている資格に応じて
毎月の給料に反映されますし、自営業者ならば
できる仕事内容が広がっていき収入に反映します。


実は私が初めて就職した会社の部門は、
ソフトウエアの開発部門でした。
自社で企業に営業をかけ、ソフトを受注して開発し、
ハード本体と合わせて納入します。


私は営業マンとして入社し、植木等さんの映画を
地で行くような展開になりました。
受注を重ねて実績を積んだ結果、新たなソフト開発を
社内で立ち上げるまでになったのです。


入社11年眼にして営業力を買われて、今度は
天然資源に関する部門の仕事をすることになり、
今に至ります。


私がIT部門にいたころは、パソコンではなく「オフコン」と
呼ばれるバカ高価なシステムが主流の時代でした。
一つの仕事を受注すれば、ソフトが数千万円。
ハードもすぐ数千万円になるような時代でした。
そのころのIT業界での資格制度は、
まだ始まったばかりのころだったこともあり、
それほど重視されていませんでした。

私はソフト開発の資格はなく、最後まで全くの素人でした。
ただ、お客様の視点に立ち、どんな内容のシステムが
相手の業務に改善によいかがすぐに脳内に浮かびました。

その全体の流れを、業務まで含めて図に表して提案して、
受注を重ねる能力だけはあったようです。
また、経営者にもよく好かれました。


それに加えて、私の見積書の正確さは社内では評判でした。
どんなにスッタモンダしても、
終わってみれば赤字にはなっていないのです。
エンジニアが出す工数見積もりを私の一存で増減して、
受注できる最善の内容に変えていました。


そのようにうまくいった要因は、私が受注した内容を
システム化するエンジニアたちでした。
いろいろとスッタモンダしましたが、最終的には
丸く収めて行ってくれました。


今思い出しても、本当に優秀なシステムエンジニアたちでした。
私などは夕方になるとどこかに消えていましたが、
彼らの帰宅は早くても夜の10時以降でしたね。


そんな彼らは、ITの資格試験に自腹を切って挑戦していました。
その様子を横から持ていて思ったのは、彼らは今の仕事が
「根っから好きなんだ」ということです。

ただ、誰もが最初から仕事を好きなわけではないのです。
自分が日々接していることへの愛着を、
自分で育てていったのです。

これができない人は、仕事が「辛くなり」辞めていきました。


仕事に愛着が持てない間は、資格への勉強をしても
すぐに費用対効果を考えてしまい、義務感に縛られます。
脳内では不要な心配の漏電ばかりをします。
漏電するがゆえに、良い結果が得られないのです。


このことは、人生の何にでも言えることです。
この世には、自分に合う最善などは最初から
ないと持ったほうがよいのです。
それを探すためにフラつくのは、
最悪で無駄なことなのです。


自分が接する目の前のことに愛着を持てるかどうかの
「愛着力」が、人の人生を左右します。


愛情力は、その人の良心次第で違ってきます。
目の前にいるダンナが嫌になれば、
食事の仕方ひとつでも気に障るようになるものです。
もし、ここで愛情力があれば、
「まあまあ、仕方ないわね」となれます。

増長する憎悪を膨らませて離婚するのか、
しないのかでも人生が変わります。


まずは自分なりの愛情の視点で眺めてから、
変えるかどうかの判断をしても遅くはありません。


この世のすべては、自分自身からの見方ひとつで、
天国にも地獄にも変わります。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3343
「思いやりや慈悲心は反射して自分自身に返ってきます」  (2012/3/24 [Sat])
人間は自分が出した思いやりや慈悲心により、
相手よりも自分が救われているという側面があります。

他人に思いやりを向けたところで、それが相手に影響しない、
理解もされない、というのが普通です。

ただ、自分がそのような気持ちを
他人に持ったという事実が大切なのです。

要は人間とは、自分が「他人に」出す気持ちにより、
今とこれからの自分を形成するのです。
普段の自分が、どんな気持ちを「他人に」持っているのかが大切です。

脳内で他人を罵倒している人は多いものです。
ただ、それをしている間は、
自分も他人から罵倒される未来を絶えず形成しています。
これは損な気持ちです。


生きるすべての人間は、幸せの仏様という鏡(良心)を持っています。
その相手の鏡に、自分の気持ちを投射した内容が、
自分自身を構成していくという法則なのです。

例えば、あなたがスプーンで目の前の食べ物を食べているとします。
でも、あなたが自分で自分の口にスプーンでどれだけ入れても、
消化せずに流れ出るだけで身にならないのです。

ところが、あなたが他人の口へとスプーンですくって供給した食べ物は、
いつの間にか自分の胃袋に収まると言う反射の世界が、
この世の真相なのです。

たくさんの子どもたちにご飯を食べさせているときの
母親の視線には、満足気な愛情があります。
母親自身が食べているときよりも、
子どもがおいしいと言いながら食べる姿を
見ているほうが嬉しそうです。

子供たちに食べさせた分の何かを、
母親自身が受け取っているから満足気なのです。

これは仕事でも何にでも言えることです。
他者に与えたものは、いつか必ず自分が受け取ることになります。
この世とあの世の次元をまたいでも、絶対に受け取れます。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3342
「誰からも褒められもせず、感謝もされない、仏様の働きを思いましょう」  (2012/3/22 [Thu])
仏様は、黙って陰から支えておられる存在です。
常に何事も浄化する方向に動きます。

汚れたものがあれば、風を吹かせて雨で流し、
大海原で塩漬けにした後、太陽熱で昇華してしまうのです。
絶えず地球を清浄にするように動きます。
だから、地球の青さは=仏様がいる証拠です。

この尊い働きに対して誰からも感謝されなくても、
淡々と生き物が生きられるように清浄な環境を提供し続けてくれます。
しかし感謝どころか、近年100年間の人類は
この浄化作用を妨害して踏みにじってきました。
大自然などは、人間の不便という名の下で「苦にされて」、
「褒められもしない」のです。

宮沢賢治の詩『雨ニモマケズ』にある、
「みんなにでくのボーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず」
のような、最下層の存在に近代の仏様はされてきました。

地球上での最大の働き者とは、仏様のことです。
キンキラ衣装を着た仏様などはいません。
仏様を真似る人間が、キンキラ衣装に身を包み、
よりどころを求める人々から集金して御殿に住んでいます。

ボロボロにされながら無言の働きをする本当の仏様が、
そのような連中を見れば、どうなのでしょうか?
しかも、仏様の名前を利用して、です。
不幸な人々が「信じがたい」本当の仏様は、
御殿にいるのではなく、人々の心に「すでにいる」
ことを気づいてほしいと思うでしょう。

自然はあるのがアタリマエであり、
自然の浄化作用を迷惑にさえ思う人間を
増産してきたのが今までの時代です。
本来の日本神道は、「大自然の感謝」を忘れないように
するための「行事」をするのが本意です。

それなのに人間は、大自然(仏様)をいじめる
人間活動(開発など)を祈り、社会の集金活動を祈り、
仏様に申しあげているのです。これでは、

大自然を鎮める能力をなくしてしまうのは、当然なのでした。
だから今からでも、仏様に感謝だけをする有志ある人々が、
日常生活の中に仏様への感謝を置いていく
意識を持たなければいけないのです。

これをしたことで、その人が社会生活の中で、
社会で幅をきかせる感謝心のない連中から
嫌なことを受けるかもしれません。
まさに、本当の仏様が受ける待遇と同じようにです。
でも、その心ない人類から感謝をされなくても、
それでも助けてきたのが仏様なのです。
だから、仏様と同じような道を、心ある人が進めば良いのです。

人間も自然の一部ですから、
必ず本当の仏様を「思い出す」ときがきます。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3341
「人生においてはどんなことでも「修行になる」と覚悟しましょう」  (2012/3/21 [Wed])
恋愛では、お互いに時間を作って、いわゆる
用意された最善の状態であっていると言えます。
数時間の間では、多少の問題を感じていても
何となく過ごしているものです。そして、惰性で進みます。

でも、相手の最善ばかりを見て結婚すると、
後から違和感や不満が出やすいものです。
最善の状態で会う数時間の恋愛機関と、
24時間べったり(住まいの問題、収入の問題、
親族との関係……)の生活では、全く違うものなのです。

この視点を忘れずに、恋愛中も相手を静観して
選択できれば、結婚後も違和感が少なく済みます。
覚悟ができているからです。

これは、何にでも言えることです。就職もそうです。
誰でも仕事を選ぶときは、条件や良い面ばかりを
比較して注目しているものです。これでは、
就職をした後に不満が出やすくなります。

会社を選ぶときは、良い面ばかりを探さずに、
その仕事から起こり得る嫌な面も調べて、認識
すれば良いのです。覚悟したうえで就職すると、
耐えられるものです。

私のブログのコメントでも似たことが言えます。
よいコメントばかりではなく、いろいろな心の段階の意見が出されます。
それらが混在する現実の中で、それでも自分の良心を
守れるのか、それでも自分の内面に
仏様を見ようとするのが大切なのです。
仏様は、「お金を払ってでも、ストレスを買え。
その中でこそ心の成長は起こる。
そして、それは心の永遠性と真の自由を得ることになる」と示されます。


現代では、自ら苦労を買う必要はありませんが、
嫌な仕事などは最高の修行の場にできます。
しかも、給与までついてきます。もし、
今の家庭や仕事、環境が嫌ならば、
逃げることを考えずに、「それを好きになる」努力と工夫をすることが大切です。

私も仕事が嫌いで辛いと思っている間は、
転機は来ませんでした。しかし、その場を
成長するための場だと「覚悟」したとき、
それから成果が出て転勤の指令を受けました。
その苦しいときのお蔭で、
自分の意志力・実現力は大きく成長増しました。
ブログのコメント欄では、私は似たような返事しかしませんが
見えるコメントは重要ではないのです。
読者各人が心に幸せの仏様を感じ、
心に種火を点けるだけで十分なのです。

あとは各人が自力で自分の内面に仏様の種火を
感じ出したとき、その現状の変化は起こりだします。
これは金銭には代えることができない、
本当に尊くて価値のあることです。この世を振り返るとき、
それがわかるでしょう。
だから、現状が苦しい人も、幸福な人も大丈夫です。
今の生かされている現状に感謝しながら、
自分ができることしていきましょう。そのうえで、
ご先祖様や仏様にも感謝を捧げる行為ができれば、
それは非常に尊いことです。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

「生きてくれた過去の自分にも感謝しましょう」  (2012/3/20 [Tue])
過去の自分が満たされなかった心の飢餓感が、
今の自分に影響しています。
今の自分は、この事に気がつかないだけです。
人は過去のことを忘れていきますし、たとえ覚えていても、
今の問題に関連づけるのがむずかしいのです。
過去の出来事が今の自分にどんな影響を与えているのかは、
いろいろなケースがあります。

過去に愛情に飢えた自分がいたならば、
今の自分はなぜか過剰な食欲として現れるケースがあります。
これは特に女性に多いです。過去の愛情の飢えならば、
今も愛情を求めるはずなのですが、
ここが人類の意識が複雑な点です。
今は食欲を求めるのです。

これは自分の無意識が、
今も愛情を得ることがむずかしいと判断すると、
変わりに食欲で満たそうとする「代替えする行為」
で満足を求めるからです。
愛情の飢餓感が食欲の飢餓感と代替えされるのです。


この「代替え行為」がクセモノなのです。
今の自分の趣味や、悪趣味、性的嗜好、不運、幸運、
財運、仕事、健康、寿命……すべてにリンクしています。
代替え行為の関連づけを細かく分析することができれば、
今の自分は「そうなるべくしてなった」ということが
明らかになるでしょう。
これは、因縁や因果とも関連します。



代替え行為という、物質と精神が混在した反射が、
現在の私たちに起こります。しかし、
過去の問題と今の状態をリンクさせて、
認識する必要はありません。それはムダな作業です。
今の自分は、偶然や不運で現状にいるのではない、
ということだけは知っておきましょう。

今が苦しい人は、この法則が機能していると言えます。
だから逆に言えば、絶対に改善する人でもあるのです。
なぜならば、今から良い反射を生む行為と
生活をしていけば良いだけですから。
そうすると、放っておいてもこれから良くなっていきます。

そのためには、どうすれば良いのか?
過去の自分に対して、感謝を捧げることが大切なのです。
過去の自分が「生きた」からこそ、今の自分がいるのです。
今の自分を抹殺しようとする人がいますが、
それでは未来の自分が困りますね。
過去の自分が、恥ずかしい物事や、苦しいこと、汚いこと、
危険を冒しても、それでも生きてくれたからこそ、
今の自分が生かされています。
生きてくれた過去の自分に対して、
今の自分が「生かしていただいて ありがとうございます」と
感謝と挨拶することは、大きな意味を持ちます。
これを繰り返すことにより、過去の自分からの代替え行為を、
段々と昇華させることが可能です。
仏様やご先祖様への感謝の思いに加えて、
過去の自分にも感謝をしていくと、
あの世とこの世、両方からの改善が起こります。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3339
「人生は旅です。自由も不自由も楽しみましょう」  (2012/3/19 [Mon])
この世は本当に不自由な世界です。
自分の思い通りにいかない世界です。
仕事が見つかったと思えば健康問題が発覚したり。
仕事がないときはヒマを持て余して、良からぬ遊びで借金を増やしたり。
独身のときは死ぬほど結婚をしたがり、結婚をすれば死ぬほど苦しみ。
死ぬほど正社員を求めて就職すれば、今度は死ぬほど仕事に悩むことばかりと。
これは、何かが変だと思いませんか?
とにかく思い通りにいかないことを、
あえて私たちが体験するように物事が流れるようにできている世界なのです。


これの答えは、この世に肉体を持つ時間は、有限だということです。
期間限定なのです。
どんな苦しみや悲しみや喜びも、必ず終わり過ぎ去っていきます。
だから逆に言えば、絶対に耐えることができるし、
最終的には「大丈夫」なのです。永遠に死なない不滅な私たちの心が、
期限のある、不自由な肉体に乗車しているのです。
わざわざ自分からこの世に生まれ、不自由な肉体に乗りに来たのです。
しかも、この肉体を運転する間(=生きている間)は、
あえて先が見えないように、自分からライトを消して運転しています。
先が見えないジャングルを進んでいくのですから、
何度も壁にぶち当たったり、迂回を繰り返したりします。
でも、これを自ら体験したくて、今の肉体に乗りに来たのです。


不自由な乗り物から、歯が抜け、足が使えなくなり、
脳が役目を終えて最後まで乗り切って、この乗り物から心が降りるとき、
その達成感とはすごいものでしょう。
旅を終えたあと、心が通過してきたジャングルの軌跡を振り返ったとき、
いろいろと思うことがあるのです。

不自由なジャングル体験をせずに、じっと座ったままで瞑想をしていた人や、
ガケへと誘導するニセモノの光に誘導された心は、大きな後悔をします。
いったい何のために、わざわざジャングルを横断しに来たのかと。
時が来れば嫌でも、時間がない、変化がない、
静寂の世界へと誰もが帰るのです。
その時に嫌と言うほど瞑想もできます。このジャングルの行程を正しく体験し、
楽しく過ごす方法も、仏様は恩寵(プレゼント)として用意されています。
それは、乗り物(=肉体)を運転中は、外からの光を頼らずに、
乗り物の中に隠れている良心という光を見ようとすると、
正しく前進する仕組みになっているのです。

自分の中の良心の光を信じて、見つめて生きましょう。
旅を楽しむことができるし、必ず良い旅となっていきます。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3338
『他を「育てる」視点を持てば、自分も「育てられます」』  (2012/3/18 [Sun])
自分の利益や自我(我れ良し)ばかりを生きていると、息切れをします。
幸運も逃げていき、生命力も落ちます。
いや、そんなことはないと自分の願望達成だけに邁進して、
一時的な成功や願望を達成したとしても、
理由のない「虚しさ」が必ず存在します。
虚しく満足感が得られないので、さらに勘違いをして新たな願望を求めます。

しかし、自分だけの願望を叶えても、
いつまでたっても安心することはできないのです。
今度は逆に失うことの不安感が増すものです。
心の平安は訪れません。なぜ、こうなるのか?
それは、すべての人間が持つ自分の仏性(幸せの仏様)に背くからです。
心の表面の自我は、自分だけのことに執着しようとしますが、
心の奥の幸せの仏様は完全に公平なのです。


この世では、圧倒的に幸せの仏様が
生命力・幸運・物事を生み出す力に満ちています。
だから自分の心の幸せの仏様に沿った生き方をすることが、
本当の幸福につながります。

この世では、自我の欲求を満たすことが幸福だと、
勘違いをさせられることが多々あります。
しかし、それでは真からの満足は絶対に得られません。
だから、今が苦しくて、病気がちで、
貧乏で絶望感に包まれていても大丈夫なのです。
今から、他人のために生きる視点を持てば良いだけです。


子どもを持つ母親が育児ストレスを抱えながらでも働くことができるのは、
子どものためだという思いがあるからです。
もし、家族の世話が嫌になり、母親が一人暮らしを始めれば、
逆に虚無感に包まれます。自分が想像していた理想どころか、
生きる意味を感じられなくて精神を病むものです。
あんなに嫌で苦しかったメチャクチャな生活のほうが、
体が健康だったと気づくのです。

成功する経営者の見分け方も簡単です。
人や物を「育てることに喜び」を感じている人は成功します。
自分のことよりも他への視点がある人は、金運が増します。
自分の仏性(幸せの仏様)は、母性のカタマリです。
だから男女ともに生活の中で、母性を意識して発揮させることが、
運気が増す秘訣です。今が苦しくて悩む人は、
まずは自分のご先祖様に感謝することから始めましょう。
これも他を意識した立派な行為です。
他を育てようとする人は、反射で自分を育てることになります。

これは秘教のエッセンスのひとつなのです。

伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より



vol. 3337
「楽しいことも辛いことも「経験するため」に生れてきたのです」  (2012/3/17 [Sat])
多くの人間が、一番信じていないのが自分です。
だから他人を気にします。

「自分なんてダメだ」と心の隅で思っています。
だから、いつも不安感は消えないし、
何か始める前から失敗を恐れます。あなたが気にする他人も、
同じく不安な人なのです。
でも、「生かしていただいて ありがとうございます」の
視点を本当に強く持つことができれば、
そもそも失敗などは一切なくなります。

なぜなら、失敗という経験できること自体が、
生きているからこそ体験できるものだからです。
病院で生涯ベットから出られないと告知されている人は、
「私も失敗でも良いから、何か経験したいよ〜。ここから出たいなあ」と、
他人の失恋話でさえもうらやましく聞いているものです。
生死の原点から見ると、どんなことも光り輝いているのがわかります。

もっと、想像してみましょう。親が子どもとケンカした。
見捨ててしまいたいほど憎らしいこともあるでしょう。
でも、それは子どもがいるからこそ持てる悩みです。
子供が欲しい人には、うらやましい経験です。
もし明日、子どもと死別すれば、もっとケンカしたかったと思うでしょう。
子供の悩みなどは、本当は親には一切ないのです。
生まれただけで、十分にありがたいからです。
悩まずに、子どもと体験して生きましょう。

もう親の面倒を見るのは嫌だ、
断絶したいと思う人もいるかもしれません。
でも、その悩みでさえも、自分が親の歳になれば、
申し訳なかったと素直に思えるときが必ずきます。
期間限定の必ず終わりがくる悩みです。

これさえも、親の顔を知らない人間にとっては、
何となく自分も経験したかったことなのです。

仕事の悩みも同じです。仕事がない人にとっては、
どんな悩みがあったとしても、給与が入ることはうらやましいことです。

どんなことも、生きているからこそです。
今が辛くて死にたい人も、それ以上に自分自身が
生まれることを希望したから誕生しているのです。

そのつらい経験でさえも、本当は経験したかったのです。
あの世とは、変化がないという苦痛がある世界なのです。

だから、どんな苦しい前提条件(性別、生まれる国、
親、病などの不変な条件)があるとわかっていても、
「挑戦したい、生まれたい、経験したい」と
理解して誕生しているのです。

そして今は、白紙の運命にどんな軌跡を描けるのかを
自らが挑戦している「最中」なのです。
どれだけ、へなちょこパンチを打てるのかを、
自分が試したかったのです。だから、

今がどんなに不幸で、辛くて苦しくても大丈夫です。
あなたは、心の中にいる幸せの仏様とともに体験しているのです。
すべてを心の中の仏様が見届けています。
だから、一切のムダ、失敗というものは存在しません。
生きているかぎり、挑戦ができます。

安心して、自分なりに明るく頑張りましょう。

伊勢白山道著「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3336
「嫌な芽は自分で刈り取りましょう」  (2012/3/15 [Thu])
自分で自分の心を守る気持ちは大切です。
自分が怒りや悲しみを感じるからと、
ただその気持ちを暴走させてはいけないのです。
最終的には、その嫌な気持ちを膨張し継続させているのは、
他人ではなくて、受け取った自分自身です。

日本には、礼節という言葉があります。
「礼儀」と「節度」は、古来から大切にされてきました。
特に節度が大切です。節度とは、行き過ぎのない適当な程度、
という意味です。つまり、仏道の正中でもあります。
自分の嫌な感情は、自分のものであり自分の勝手だとして、
暴走させてはダメなのです。そのうちに本当に分離して、
自制がきかなくなります。こうなると心身症の始まりです。

少し嫌な芽が出てきたならば、
自分で「生かしていただいて ありがとうございます」と思いながら、
刈り取っておきましょう。要は、人間の心には、
暴走する可能性のある馬に引かれる、馬車に必要な4要素があるのです。
1 荒馬をコントロールする先頭に座る人物……意識と自我
2 装飾された馬車の荷台……人間の肉体
3 その中に座す高貴な人物……心の中の幸せの仏様
4 馬車を引く馬……感情、志

馬車を暴走させるのか、安全に走るかは、1次第です。
外部からの刺激をただ受け取って、
馬を暴走させてはいけません。そのうちに2も転倒してしまいます。
どんな刺激がやってきても、馬を「自分でなだめながら」
安静を心がけます。そして、目では足下のイシコロばかりを見ずに、
遠方へと真っ直ぐと視点を置くのです。
身近な足下ばかりを見て、猫背になってはいけません。
心が猫背になっている人が多いのです。
目の視点が近すぎると、乗り物酔いもします。
つまり人生に疲れてしまうこととなるのです。気をつけましょう。

他人からの怒りや悲しい刺激を受けても、表面では影響を受けても、
表面では影響を受けたふりをしても、
自分の心の奥には絶対に響かせないことです。
ただ、自分にも反省点はないかだけは考えましょう。
これは、自分のためになるからです。とにかく、
自分の心の奥には幸せの仏様を意識することが、
人生において大切なのです。この世の何よりも価値があることです。
今日も頑張って、馬車の中に座す高貴な人物を運びましょう。
いつか、良い所へと必ず行き着きます。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3335
『「今」を大切に生きれば大丈夫です』  (2012/3/15 [Thu])
『「今」を大切に生きれば大丈夫です』

「今」の連続が未来を形成します。これはこの世の法則です。しかし、多くの人は、ポッカリとみらいが「すでにある」と錯覚をしています。
そのポッカリ未来を知ろうとして、貴重な今を悩んでいるのです。今の連続が未来である法則から考えると、その悩んでいる人には、やはり悩んで不安なままの未来が来るのです。
 だから、今の自分の現状の中でも、感謝するべきことに気付ける人間は幸いです。その人の未来には、気付いたぶんの「感謝をしたくなる現実」が訪れるでしょう。
幸運が来るのです。
 人間は、いろいろな人生の選択で悩むものです。
結婚、就職、引越し・・・・・・色々とあるでしょう。しかし、それが人生ではないでしょうか?このハラハラ・ドキドキの選択を経験したくて変化のない「あの世」からわざわざ生まれて来たのです。
 「性・老・病・死」の問題からは、誰も逃れることはできません。
 確実に言えることは、どの道を選んでも問題は発生するということです。それがこの世での宿命です。どんな問題にも、自分の心まで痛めずに、淡々と歩いていくことで最善の人生となります。
自分の選択により、どんなに悩もうが、苦しもうが、大丈夫なのです。なぜなら、人は必ず死ぬからです。すべては短い一時のことです。それよりも、絶対に死ねない永遠なる存在である、自分の「心」について心配をしたほうが良いのです。

 人間の心は、永遠に死ねません。これは、ある意味では恐ろしいことです。絶対に逃げられないし、終わりなく続くのですよ。
 自殺なんかしても、今の苦しい心の状況は何も変わりません。肉体をなくすぶん、感覚が鋭敏になりますから、苦しみも10倍ますだけです。
 自分の心を大切にする人間が、真の勝利者となります。

 目先の選択にこざかしい手段を駆使して悩んでいる場合ですか?人生を楽に生きたところで、短い一瞬のことですよ。目先の消える物事のために、心配して自分の心を傷つけたり、感謝不足になることの方が、よほど重大で深刻なことなのです。どんな選択でも大丈夫なのです。自分の良心さえ維持できるならばね。自分の良心が維持できなければ、維持できるように歩く道を変えれば良いだけです。良心には、感謝の心、情け心、が必ずあります。この気持ちを忘れずに選択することが、最善へと自分を誘導します。

伊勢白山道著「生かしていただいて ありがとうございます」より

「明日に死ぬ」と思えばどんなことも大したことではありません」  (2012/3/14 [Wed])
私は毎日、一日が一生だと思いながら生活しています。
明るい気持ちで、今日しか人生はない、
明日はない(死)かもしれない、と常に思っています。
一瞬一瞬を大切にしようと、心がけています。

そう思っていると、細かい悩みや心配に捕まることは在りません。
「まあ、いいか」「仕方がない」と自然に思えます。
仕事で嫌な人物に会っても、「元気だなあ〜」と、
ほほえましく思えます。本当に明日に死ぬと考えると、
すべてが許せる気持ちになるものです。そしてなぜか、
関わってくれたすべての人に感謝をしたい気持ちになるのです。

よく考えてみると、人間はいつかは必ず死ぬのですから、
明日に死ぬと思うのは極端かもしれんませんが、
そのような気持ちで生きるのが本当なのです。
人間は死を忘れると、執着(=悪いこだわり)が起きてきます。
そうすると、争うことも平気でできてしまうのです。
では、夢や希望は、どう思えば良いのか?
自分の夢が叶えられないと思う人は、
遠くの先に自分の夢の実現を見ているから、
叶わないのです。結局、今日は何も夢に向かって行動していません。

いつか、ではダメなんです。未来に置いたままの夢を見ているだけで、
今の行動が伴っていないのです。明日がないと思えば、
今日だけでも夢のための0.1%の努力・行動をすれば良いのです。
夢は未来に見るのではなく、
今日、夢に向かって何らかの一歩を踏み出すことです。
今日の中に、夢を見られると最高です。

「一日一生」の気持ちで懸命に生きていると、
怪しげな他人から身の回りのことを言い当てられても
「ああ、そうですか」で終わります。
今を懸命に生きていない人だけが、
そうした当てものを喜びます。
そして白紙の未来を限定することで、安心しています。
時が過ぎれば、なにも改善も成長もできずに、
「不安なまま」でいる自分に気づくでしょう。
そのときにはもう、時間も大金も失っています。
当てものだけでは、人生は絶対に改善しません。
人生を歩くのは、不安な自分自身だからです。
では、どうすれば良いのか?

正しい信仰を自分で実践することです。信じるべきは、
自分のご先祖様と、自分の心の良心=幸せの仏様です。
他人を挟んでは絶対にダメです。自分自身(自仏)から離れるからです。
世の中には、自分自仏から離れさせるさまざまな
誘惑が非常に多いものです。気をつけましょう。
「一日一生」の気分で感謝の信仰をしていると、
少しだけ「欲しいな」と思ったことが、
すべて与えられていることに後から気がつきます。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3333
「他人との比較は意味がありません」  (2012/3/13 [Tue])
私たちは、それぞれの環境で生きています。
各人が持つ悩みも、喜びも違います。
ある男性は、今の借金が消えると天国なのになあ、と思い。
別の女性は、結婚すれば幸福になれるのになあ、と思っています。
でも、それが実現すれば、本当に天国や幸福になると思いますか?
現実には、それを叶えても、また別の悩みを新たに見つけて、
真剣に悩んでいますよ。願望には終わりがありません。

これはこの世に生きる間、人間が持つ錯覚なのです。
自分の現状の中で、喜びを見つけようとする姿勢が、
この錯覚を消す働きをします。これは現状に
甘んじるという小さな考えではなく、現状を受け入れて、
その中でも感謝するべき視点に気づくことで、
発生するものがあるのです。
それは、今よりも頑張ることが自然とできることなのです。

この世で生きる間、自分自身の大きな障害になることがあります。
それは、他人との比較です。他人が持つ幸福の基準に、
自分を合わせて比較する間は、絶対に幸運は来ません。
オリジナルな自分を見捨てているからです。
人間は、一人で生まれ、最後は裸で一人で死んでいくという道理は、
「自分だけを見つめなさい」という心理でもあるのです。
途中で出会う家族や仲間は、自分自身が持つ可能性を
引き出させるために、現れてくれているのです。
自分に子どもが生まれるのは、自分の母性を試されているのです。
もし障害などを持つ子どもが生まれたならば、
これは自分自身が観音様になれる人間かどうかを試されているのです。

明日に幸福になろうでなはなく、今、すでに幸福が自分にはあるのです。
どんな悲惨な今もです。生きていること自体が、すでにすごい幸運です。
みんな死後に驚愕し、後悔します。生きているときの貴重さを知るからです。
もっと感謝しながら、苦しみも楽しめば良かったなと思うのです。
これは、無理にわかろうとしなくても良いことです。
ただ、生きる方向を聞いただけでも、大いなる価値があります。
この世で生きるパターンを繰り返すうちに、
その心理の断片を垣間見ることがあるでしょう。

伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3332
「今ある現状の中で思いっ切り生き切りましょう」  (2012/3/12 [Mon])
人間は運の悪ことがあると、ほかの物事の責任にして、
自分自身が持つ問題を考えないものです。
不幸の原因も自分は悪くないと思い込み、
ほかの存在(他人やご先祖様など)を
原因にして安心しているのです。
原因の解決を、自分以外の外側ばかりに求めています。
これは自己保存のための、間違った動物的な本能だと言えます。
とにかく自分を見つめることをしません。

だから解決の手段を、まったく問題とは関係のない
外部のものに求めがちです。それは他人であったり、
見えない仏様商品であったり、とにかく解決の手段を外側に求めます。
全く自分のことを振り返らないのです。

このような間違った動物的習性(=責任転嫁)が増長すると、
「すべては決められた運命だと思い込めば楽になれる」
という錯覚をします。これらの人に共通するのは、
「努力する」という言葉を痛く感じて、嫌うことです。
とにかく自分の責任ではないという、
言い訳を求めて迷走(瞑想)するのが好きなのです。
不幸でさえも、運命を決めた仏の責任にして、
自分たちは悪くないとしておきたいのです。
しかし、本当の仏は、人間の運命を超えた存在です。
個人の運命などにはいちいち干渉しませんし、
そもそも運命などありません。

では、仏様は黙って、人間の不幸を高見の見物して
いるだけなのか?……違います。
あなたと一緒に不幸をも味わっているのです。(ガ〜〜ン!)
みんな外側ばかりを見ようとするから、
仏様が見えないだけなのです。私たちは仏様とともに生きていますから、
努力次第でいくらでも人生は改善できるのです。
運命は努力で必ず変わります。私も努力なんて嫌いです。
何もしないで楽しく暮らしたいものです。しかし、
人間は悲しいことに、どんな楽な暮らしをしても満足はしないのです。
それが必ず消えてなくなる物事(幻)だと本能
(幸せの仏様)が知っているからです。
どんなに夢を叶えても、あることに気づかないかぎり、
心の虚しさは消えません。善悪とともにどんな自分自身であっても、
自分が「多くの存在に生かされている」
「自分の心に仏様がいる」ということに気づかない限りは、
深い安心には至らないのです。

自分が弱くて消えそうな人間でも良いのです。
その苦しい中を、何とか心の仏様とともに頑張ろうとする体験を、
仏様は望んでいるのです。苦しい状況の人ほど、
正しく自分の心と向き合えば、仏様に出会える可能性があります。
運命などという幻想に責任転嫁して逃げている人ほど、
心の中の仏様は隠れてしまっています。
私たちもいつかは、この世を去るのです。
どうせ倒れるならば、前向きに倒れましょう。
私は座ったまま、喜々としてパソコンを見つめながら
この世を去るかもしれません(笑)。
最後まで努力をしながら生き切れば、それで良いのです。
仏様の恩寵(プレゼント)が必ず待っています。
真の意味では、幸も不幸もありません。
現状の中で自分ができることをしたのか、
しなかったのか、だけが悔いを残すのです。
明るく頑張りましょう。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3331
「幸運も不運もすべて幸せの仏様が一緒に体験しています」  (2012/3/11 [Sun])
毎日たくさんの人を見ていて思うことは、
どんな人生にもムダは一切ないということです。
どんなに惨めで苦しい状況でも、その人物の心にいる
幸せの仏様も一緒に体験しています。
決して、一人ではないのです。
罪を犯す人の心にも幸せの仏様はいます。

ただ、心の奥に仏様が隠れているときは、罪の自覚を持ちません。
さほど悪いとは思えずに、平気なのです。
逆に言えば、自分の犯した罪に苦しんでいる人とは、
幸せの仏様が表面に出てきている人でもあるのです。
だから安心をすれば良いのです。過去の自分の行いで苦しむ人は、
それだけ幸せの仏様に心が近づいたということです。

一人暮らしで寂しがっている人がいますが、これは深い意味では、
仏様がした体験を自分が追認している面があります。
根源的仏様は、永い永い間、一人きりで退屈で寂しかったのです。
そしてあるとき、仏様自体が自身を分けてみたのです。
それが生き物たちです。一人の人体の中には60兆個を超える細胞があり、
日々分裂しては再生を繰り返していますが、
ひとつの細胞が人体全体を見ることはできないし、
人体が60兆個の細胞を見ることもできません。
つまり、一体だからです。このような関係が、
仏様と私たちの関係にもあります。仏様は自分自体を見ようとして、
自身を分けてみましたが見えませんし、やはり私たちからも仏様は見えないのです。

結局は、私たちに何があろうとも、すべては仏様の中でのドラマなのです。
ただ、どんなドラマにするかは、自由に自分の意思で
演じることができるのです。困る人を助けると、
内心は自分の偽善であったとしても、
結果は助かった人が発生するというドラマになります。
このドラマには、台本=運命がないのです。
どんなドラマでも、仏様の中でのドラマですから、
すべてが良いのです。ただ、仏様の意思の反映があるだけです。
もし台本があれば、仏様が破り捨てさせます。
それは「おもしろくないから」です。
この世は、「行為」が重視されるドラマ世界です。
このドラマ世界にいながら、目に見えない世界に憧れてはダメです。
惨めでも苦しい役でも、懸命に最後まで演じ切れば、
それは美しいのです。きっと後で、
あの世のアカデミー賞の候補になれるかもしれませんよ。

一番ダメな役者は、途中であきらめたり、
惰性で演じる(=生きる)役者です。
楽しい役を与えられたならば、それを正しく演じ切り、
苦しい役のときも思いっきり演じましょう。
どんな役も一生懸命であれば大成功なのです。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3330
「みんなが人生のチャレンジャーです」  (2012/3/10 [Sat])
私たちはみんな、命を「運んでいる」と言えます。
生きるとは、自分の肉体に命を宿して運んでいることだと思うのです。
ただ、みんな「自分の命」を宿していると錯覚しています。

本当は自分の命などはなく、同じ一つの共通した
命=幸せの仏様を宿しているのが真相です。
しかし、あの嫌いな人物が自分と同じ命を宿すとは信じたくはないし、
明らかに別物だと思いたいでしょう。

でも、深いところでは同じものなのです。
他人と違わせているのは、この世でいずれ消えて
失くなる「個性」(性別・肉体・好み・思考
……)と、
魂を覆い隠す「自我」なのです。
大いなるひとつの存在(幸せの仏様)が分派して現実界に生まれ出て、
期限付きの独立(人生)を楽しんだ後、
また大いなるひとつに戻っていくのです。

生まれながらの持つ個性は、変えることがむずかしいものです。
自分の魂が宿命として、生まれ出る前に自分で選択しているからです。
しかし、個性の奥にある自我は、
この世で溶かすことが可能なのです。
ここに、仏様が定めた努力幅が残されています。
私たちは、自我を溶かすために、
この世に旅をしに来たようです。
自我が溶ければ、その反映を受ける宿命も変化する
可能性がおおいにあります。
つまり、素直になるだけで、運勢は好転するのです。

自我は、「我がまま」でもあります。
人間は自分だけのことを考え出すと、
運気が落ちるようにできています。
つまり、今流行のパワースポットで自分だけの
お願いをするのは、まったく逆効果なことなのです。
運が悪くなる行為を自らしているのです。
運勢を上げたければ、自分の周りの人やご先祖様への
配慮を意識的に「実行」すれば良いのです。
運気を上げるための、計画的な偽善でもかまいません。
これこそ本当のパワー手段です。

この現実界は、行為が優先する世界です。
おなかがすいてなく子どもには、屁理屈よりも食べ物がよいのです。
素直になって、周りの人々への思いやりを実行していくと、
大難が小難に変化します。普段に思う自分の願いや
希望も実現しやすくなります。嫌なダンナと
生活することも最高の修行です。少ない給料で生活し、
満たされぬ性的欲求の中で生きていく。
これこそ逃げることができない本当の修行僧ではあ〜りませんか。

これからも有限な時間とともに、必ず消えていく物事です。
大切なのは、苦しいその中でも、
自分の愛情を育てることができたか?
良心を失わなかったか?ということです。

この世の消えるものには執着せずに、
絶対に消えない自分の心を見つめたままいきましょう。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より



vol. 3329
「自分の良心が教師となります」  (2012/3/09 [Fri])
日常生活において「生かしていただいて ありがとうございます」という
生の原点を見つめる視点を持ちながら生活をすると、
心の浄化が始まります。

さらに、自分が世に生まれる生まれる道を作ってくれたご先祖様にも、
楽に居て欲しいという自分の思いやりからの供養行為をしていると、
その結果で自身の愛情や慈悲の心がより大きくなっていきます。

心の浄化が進み、情け心が大きくなっていくと、
あることを思い出す現象が起こるものです。
それは、過去の自分がした過ちや、謝るべきことを思い出し始めるのです。
今まで忘れていたのに、なぜか思い出し始めます。


これは非常に大切なことであり、
幸せの仏様からの恩寵(=プレゼント)だと言えます。
自分の良心に反する行為や発言は、意識では忘れていても、
良心には傷として残存しています。
この傷が増えるに従って、良心(¬=幸せの仏様)は
だんだんと心の奥に隠れます。この結果、自分の運勢が弱まります。

自分の良心に反する行為を重ねる人は、
不運な現象によって反省をもとめられることに成ります。
逆に言えば、自分の良心に沿った生活をしている人は、
運気が上がります。ましてや生かされている原点は
感謝の思いを持っていれば、さらに運気は強化されます。

普通の人間は、人生を過ごした後の死後に、
今生で自分がしたことをすべて思い出すことになります。
そして、自分の良心に反した行いも、
もれなくすべてを思い出すことになります。肉体をなくしている分、
心の思いはクリアになり、数倍に強調されるので、
罪の意識があればより強く感じて大きく後悔するのです。

もちろん自分がした良い行ないも思い出します。
この善悪の思いを相殺して残った思いに従って、
自らの進む方向を自分で選びます。つまり、
死後に自分の罪や無念を思いだしたところで、
違う形での修正しかできないのです。もう遅いのです。
だから、本当は、自分の良心に反することをしたならば、
生きているあいだに自分なりの補修をしておいた方が断然良いのです。
死後の自分の魂のあり方に影響するからです。

ケンカをしたままならば、結果は別として、
和解への努力を自分は「した」のか?
今さらまた問題を再燃させる内容ならば心中だけでも
忘れずに謝っていたか(これは補修する非常に有効な手段です)?
返すべき借金を返したのか?返そうと努力だけでもしたのか?…などなどを
「自分の良心に対して」納得納得させる
行為と努力をしておくことが大切なのです。
自分の良心(=幸せの仏様)はすべてを知り、
公平にみています。自分の死後にごまかすことは不可能です。
自分の死後にごまかすことは不可能です。
裁判官である閻魔大王は、死後の世界にいるのではなく、
今、あなたの心の中に共にいるのです。

自分を裁くのは、自分の良心なのです。自分の良心を、
自分で納得させる生き方をしていれば、間違いはありません。

このような内容を知っているだけでも人生は変わります。
生き方が修正されるでしょう。

まずは、自分の良心(幸せの仏様)を大切にしていきましょう。


伊勢白山道著 「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3328
「夢や希望は『軽やかに、明るく』思うこと」  (2012/3/08 [Thu])
これが叶えば、あれが手に入れば、それができれば、幸福になれるのに……と、人は悩み思いがちです。
 そかし、それらを手にしたころには、新たな別の悩みを抱えているものです。必ずそうなります。
 これが生きて「いる」という、現在進行形ゆえの人間の性です。これが少なくなっていくことが、人の老いかもしれません。
 だからその法則を認識したうえで、脳内明るく、軽く、希望や夢を持つのはとても良いことです。軽く思うことのほうが、強い力で作用するという法則があるからです。心も緩めたほうが、強い力を発揮するのです。

 人生を妨害している犯人は、自分自身が発している良くない思いが占める割合が非常に大きいのです。誰もが保有している物事を生み出すエネルギーは、思い詰めたり執着をすることにより漏電し始めます。
 緩やかに軽く希望することは、自分自身からの漏電が少なく、その分自身の希望を実現させる方向に作用します。自分の意識からのパワーが、未来へと「投射」されるのです。

 大切なことは、自分の気持ちを良心に基づいた正しい物事へと投射しなければいけないということです。
 みなさんが心で思うことは、そのことに向かって自分の思いが走っています。例えば、会社に遅刻しそうだと思うだけでも、思いは会社に先に行って照らしているものです。
 少し先の未来の物事を思えば、自分の思いは未来へと放出され、自分の先行きを照らしています。そして、無の空間に対して思いが照らされ始めることにより、空間が形成され始めます。そして、現実の物事が起こるのです。
 この過程を表現すると、「投射」という漢字がよく合います。

 この投射を、人間は自分の生活の中で四六時中しています。済んだ過去に投射したり、執着に投射したりすると、大切なエネルギーを漏電(捨てること)することになります。
 自分の生活の中で、良心に基づいた投射と自分オリジナルの思いを養っていきましょう。これが間違いなく自分の思いを実現させる近道となります。




伊勢白山道著「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3327
「どんなに嫌なことがあっても、自分の心の幸せの仏様だけは傷つけてはいけません」  (2012/3/07 [Wed])
人間は、自分の心が弱っているときは、他人の何気ない一言や
行動が気に障るようになります。細かい物事にこだわり、執着をして、
自分で苦しんでしまいます。

ところが心身ともに充実しているときは、
他人の嫌なことは気にならないものです。
すぐ別のことへと視点を移せます。

自分が嫌なことをサラリと流せなくなっていたら、注意しましょう。
実際の肉体の血液もサラサラとは流れていないかもしれません。
血流の停滞は、致命的な万病ももとにもなります。

嫌な他人のために、自分の心の中の幸せの仏様を痛めてはいけません。
自分の心を痛めつけているのは嫌な他人ではなく、
気にしている自分自身なのです。

幸せの仏様は痛みも傷もつかない不変のものですが、
心の奥へと隠れてしまいます。
そうなるとますます、自分の心から安心感が消えていきます。
そして段々と悪循環が始まるのです。

どんな嫌なことがあっても、自分の心だけは傷をつけない、
慌てないという決意が必要です。この覚悟ができるだけでも、
人生は好転します。

短い人生には、いろいろなことが起こってくれるものです。
嫌なことがあっても、それを冷静に眺めていれば
時とともに必ず変わっていきます。
嫌なことを引き止めているのは、

自分自身が他人のことを気にする思いなのです。
人間は、「自分の心に幸せの仏様を持っている」
というプライドを常に意識することが大切です。

このプライドがあれば、他人の目の届かないところでも、
自分が取る行動が変わっていきます。
また、他人の仏さまも尊重することができます。


他人に対して不快なことができる人とは、
自分の神様を否定している気の毒な人なのです。
必ず本人の心が安心できなくなり、不運になっていきます。
あなたが他人を裁く必要は一切ありません。

この世は、自分がしたことは自分自身に返るように強固に
設定されている世界だからです。
ただ、その反射には時間差があり、
反射する内容も変化するのでわかりにくいだけなのです。

しかし、その負債の総量は絶対的に同じです。
逆にいえば、自分が良いことをすれば、いつか必ず自分の魂が
その反射を受け取れる世界でもあります。

現世で受け取るとは限りませんが、
時空をまたいででも必ず自分の魂が受け取ることになります。

さあ、今日も周りの人々と縁ある魂に、
自分の良心からの善意を配りましょう。


伊勢白山道著
「生かしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3326
「いろいろな物事に挨拶することが大事」  (2012/3/06 [Tue])
「仁義」というと、何かヤクザの世界のことだと思いがちですが、
辞書を見ますと、
1 道徳の根本理念。道徳の類語である。儒教思想の言葉。
2 道徳上守るべき筋道。「―にももとる行為」「―を重んじる」
3 他人に対して欠かせない礼儀上の務め。義理。
4《「辞宜」からか》ばくち打ち・香具師などの仲間の道徳・おきて。
また、その仲間内で行われる初対面の挨拶(出典:大辞泉)などとあります。
仁義を守って生活することが、
その人に真の幸福をもたらすと儒教では伝えています。

私は仁義と聞くと、日本語の音の神秘性ゆえか、=神祇と浮かびます。
神祇とは、天(=天津神)と地(=国津神)の神々のことです。
「仁義を切る」と言いますが、これは「神祇(仏様)へ挨拶すること」と感じます。

挨拶とは、仏様と「向き合うこと」です。要は、これだけで十分なのです。
自分の生活の中で仏様に挨拶をする。これが本当の信仰の姿です。
挨拶をすることに、変な見返りの期待をしてもムダです。

ただ、人間同士でも挨拶をしていれば、
何かあったときに助けてくれる人も中にはいます。
助けてくれるかどうかは、相手に「お任せ」なのが普通のことです。
自分から強制することはできませんよね。

信仰のお陰を自分が受けるのかどうかも、
幸せの仏様へのお任せです。幸せの仏様は、
あなたのすべてを見ています。

どんなに大げさな行法や秘密の教えなどと言っても、
それは人間からお金を搾取する手段にすぎないのが真相です。
もし、そのような秘密なことに効果があるならば、
それは魔界からの関与と思って間違いありません。

正しい仏様が秘密に関与することは、絶対にありません。
空気のように必要なものは、無償で提供してくれるのが仏様です。
個人と個別な「契約」をするような存在は、
どんどん消滅していくものです。そのような存在からは、
人物を含めて離れて見ていることです。

生活の中で、いろいろな物事に挨拶しながら生きていけば、
間違いはないのです。

伊勢白山道著「いかしていただいて ありがとうございます」より

vol. 3325
「自分の最善を尽くすこと」  (2012/3/05 [Mon])
 自分なりの最善を普段「本当に」していれば「お任せ生きる」という心境になれます。そして、どんな結果にもジタバタしないでいられるのです。結果が出るまでの途中でも、よそ見をして迷うことがありません。ところが、自分のするべきことをしていないと、必ず不安になり迷い始めます。

ここで人は、さらなる努力をせずに、イレギュラーな手段をなぜか考えるものです。そこを何とか、どうしても……と考え始め、自分がするべきことを放っておいて、祈願や、占術やパワースポットなどと、横道へ時間と金銭を消費します。冷静に観察すると、これは実に滑稽な真逆の行動です。おなかがすいてるとき、少ない持ち金で食事をするべきところを、なぜかなけなしのお金でバクチに行くようなことをしてしまうことになるのです。

それほど人間は、「お任せの心境になる」のには、勇気がいるようです。何とかしたいという執着と自我が、滑稽な遠回りへと逆向き人間を誘導します。だから、早く改善したい、早く幸福になりたいならば、方法はひとつです。お任せの気持ちになれるまで、自分ができる最善を尽くすことです。

しかし、これがむずかしいのですよね。最善を尽くしたいのだが、何を知ればよいのかわからない。また、どうしても効率の良い道や、近道を探してしまうのが本音でしょう。でも、仏様こそが、頼りない私たちを「信じて」任せてくれているのです。これは、ある意味では畏れ多いことです。仏様は、大切な子どもとも言える分神(幸せの仏様)を、生まれ出る人間に託して預けています。だから、人間は生命を授かることができているのです。神気がなければ、生命の絶滅は簡単に起こるでしょう。

 改善や幸福へ進む近道と答えは、「現状への感謝」から始まります。いろいろとあるでしょうが、「それでも生かされていること」に感謝を始めましょう。そして、お任せの心境になれるまで、自分自身を納得させる最善を尽くすのです。短い期間限定の人生ですから、すでにどんな結果も最善です。

伊勢白山道著 「生かしていただいて ありがとうございます」より抜粋

vol. 3324
「自分にできる努力をしたなら、あとは仏様に「お任せ」の気持ちで生きましょう」  (2012/3/04 [Sun])
人間とは、普段の自分自身の思いや志を身にまとっているものです。自分がまとう思いの色が、他人から見た自分の印象(=目に見えない感覚)となります。
 この人は、ホンワカしている人、優しそうな人、怖そうな人、スケベそう……色々あります。自分の普段の思いが合算されて、一番強く残る思いが、その人物の印象を形成します。

 洋服ならば、実際に着替えれば外見の印象を変えることができます。しかし、身にまとう思いが他人に与える印象は、自分で意識的に律しなければ、外見を取り繕ったところで変えることはできません。思考とは、放っておけば暴走して肥大するものです。そして、肉体をも縛り始めます。これが病気にもつながります。
 しかし、人間は生活をしていると、いちいち湧きおこる感情の思いを制御できるものではありません。「この人は嫌いだあ」「シンドイなあ」「腹が立つぅ〜」などと思っているものです。このようなわき起こる感情は、情熱の発散として起こるままに「流して」いきます。ここで大切なのは、「思い」を「貯めない」ことです。マイナスの同じ思いが流れずに貯まりだして、再生し出したら注意のサインです。貯まった思いの内容が、自分の身にまとう印象を形成する要素となるからです。

 身にまとう思いにマイナスの思いが擦り込まれ始めると、その思いの内容がますます頭から離れがたくなります。これが心身症やウツの始まりにもつながります。嫌な思いは、切断しなければいけません。その方法が、感謝の仏祭りや先祖供養なのです。

 どんなに悪い物事でも、「流れる」限りは大丈夫です。これは、思考の話だけではなく、この世の森羅万象に通じることです。体内の排泄もそうですし、お金にも言えますし、よい人間関係にも言えます。生活の中で湧き起こる思いは流して、これではいけないと「思い直す」習慣を一日の中で何度も持てば良いのです。そして、細かい心配をせずに「生かしていただいて ありがとうございます」と繰り返しながら作業するのは非常に有効です。これを続けると、悩みや問題の解決法が、考えてもいないのに浮かんでくるようになります。人間の脳(=宇宙)は、思考によって考えようとしなくても、もっと脳の奥深い領域において、必要な対策を無意識に取るものです。執着して考えないほうが、よい答えが「来る」のです。

苦しくなったときは、自分の力みを解いて「幸せの仏様にお任せ」の心境で進んでいきましょう。それが自分にとっての最善の道となります。人生には「成るように成る」ことを受け入れる勇気も必要です。自分ができることを努力したならば、それで十分です。裸で生まれて裸で死んでいくのですから、慌てる必要はありません。

伊勢白山道著 「生かしていただいて ありがとうございます」より抜粋



vol. 3323
「運命は未定!心がけ次第でいくらでも好転します」  (2012/3/03 [Sat])
人間の運命は、変えることが可能です。ただ、そのためにはいくつか、心がけなければいけないことあります。

まず第一に、仏様への「感謝をするだけの信仰」行うことが必須です。では、最高の仏様とはどこにいるのか?それは皆さん一人一人の心に、良心=幸せ仏様として常に存在します。人間が作った豪壮な神殿や品物などには絶対にいません。そんなところにいるのは、低迷な迷いの存在です。自分の心の仏様を大切にしましょう。

第二に、この世では、物を買うにはお金が必要です。これと同様に、自分の運命を改善するには、改善するためのエネルギー貯金を自分自身で行うことが必要です。このエネルギー貯金が不足しているのに、勝手に不満ばかりを思う人が多いのです。一番効率の良いエネルギー貯金は、自分が発する普段の「善い思いの気」と「行為」です。ではどうすれば良いのか?それは感謝の先祖供養と、「生かしていただいて ありがとうございます」という感謝想起を生活の中で行うことです。

第三に、運命を改善するには、食事内容が大切です。お米、野菜、魚が中心の粗食を心がけることです。油系や肉系の食事は、週に一度くらいならば良いでしょう。間食のお菓子では、油系のスナック菓子を和風のだんご類に切り替えるだけでも、記憶力が上がり学力もアップします。つまり運命も変わるのです。

生きてさえいれば、いくらでも運命は好転します。その為に人間は、有限な自由時間を与えられているのです。高齢者でも、死ぬまでチャンスに満ちています。常に自分が最高の仏様と一緒にいることを忘れないのが大切です。
カンナガラ(=仏様とともに)で歩いていきましょう。

伊勢白山道著「生かしていただいて ありがとうございます」より抜粋

vol. 3322
「自分自身を信じることが成功への近道です」  (2012/3/02 [Fri])
人間の人生は、自分の心の良心=幸せの仏様への信心(信じる心、信仰心)で大きく変わります。自分以外の組織、人口物、お守り……を信じている人は、本当の正しい信心がないのです。自分を信じられない気の毒な人です。本当の信仰心がなく、不信心な人です。自分を何かに売り渡していることになっています。
 逆に形式的な信仰心がなくても、自分を信じて行動できる人は、ある意味では信仰をしているとも言えます。ただ、我れ良しな自分を信じるのではなく、自分の心にある良心=仏を意識して行動ができれば、真の求道者であり信仰者でもあるのです。

世の中で成功する人は、たとえ無信仰者でも、よい意味で自分が信じることができている人なのです。しかし、果たして自分の考えや行動は正しいのか?と、生きているかぎり内省と反省をすることが、人間には必要なのです。これのあるなしが、その人の成功の「長さ」を左右します。一瞬の成功は誰でも簡単なのですが、成功の「継続」はむずかしいのです。

だから自分自身を信じだ先において、無言のご先祖様や神仏に対して、日々の感謝をする行為が「継続」できるか?ということがカギとなります。感謝する行為の対象は、無言で、見えなくて、効果を期待しないほど良い対象なのです。意外ですか?なぜなら、最高神は生きる人間に宿っているからです。仏は死んだ者には、宿ることはできません。だから仏様がいるかぎり、生き物は誕生します。自分の心に仏様を預る人間が、慈悲や愛情を示し、思う行為が、日常生活の中の習慣があることが最善です。

人間は、「自分が蓄積した」愛情心や慈悲心、感謝する心に、自分自身が救われるようにできています。これは神が創った法則です。これは人間にとって、真の意味で公平なことなのです。だから安心してください。今からでも、感謝する心を生活の中で蓄積して生きましょう。これにより、自分自身が必ず救われます。


伊勢白山道著「生かしていただいて ありがとうございます」より抜粋

「楽しいことも悲しいことも明るく体験しましょう」  (2012/3/01 [Thu])
人というものは、与えられた現状の中で輝くことができるかどうかを、自分自身で試すために、あの世から来ています。人によっては、10歩でも歩くことは挑戦であり、命がけの旅かもしれません。他の人には、10歩などは一瞬で到達するかもしれません。でも、その人にも、違う内容でのむずかしい課題が必ずあります。だから、この世に生まれるのです。


違う課題を持つ者どうしが一緒にいる世界が、この世です。それなのに、自分で決めたり自分が自分に課した課題が違うために、他人と比較してしまうから、無理と矛盾と不公平感が生じるのです。自分自身を見ずに、他人を見たために不満と迷いが生じます。
これはこの世だけでの大いなる仕掛けです。この世以外の他の世界では、同じ課題を持つ魂だけが、磁石のように自動的に集まるからです。どんな課題も全員が同じならば、それが常識となり、普通なのです。


だから、悔しい、悲しい、腹が立つ、嬉しい、楽しい、何とかしたい……これらは素晴らしい思いではないですか。この世だけの貴重な思いなのです。この世に生きていればこその思いなのです。明るく体験しましょう。この世は自分自身を見させないで、他人を見るようにしむける誘惑に満ちています。しかし、他人ばかりを見る間は、安心・成功・真の幸福は来ません。このジレンマを打ち破るのは、他人(家族も)へは思いやりを与える一方だけの視点を自分が持つことです。そして、自分自身を見つめることです。


みんな、自分自身を納得させるだけの課題を持っています。だから安心して、自分に向き合いましょう。自分自身の中に、幸せの仏様を見いだした者が、真の幸福な人です。その人物の周りの人も、何らかの恩恵を受けて助けられます。自分なりに歩いていきましょう。



生かして頂いて ありがとう御座位ます。

伊勢白山道著 「生かしていただいてありがとうございます」より抜粋


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