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2012年 9月

vol. 3651
「頑張っても頑張っても報われない日々……」  (2012/9/30 [Sun])
 こんな質問をいただきました。
「今、会社勤めをしています。仕事が嫌で嫌でたまりません。
毎日が苦しいことの連続です。こんな就職難のご時世です、
辞めるわけにもいかず、悩んでいます。何かアドバイスください。」

 現代は、職場で苦しい思い、
つらい思いをされている人があふれています。
それでも生きるためには、否が応でも、
そこでなんとか頑張るしかないというのが現実です。

 私も、以前勤めていた職場が好きではありませんでした。
自分が望んでいた職種ではありませんでしたし、
職場の雰囲気も封建的で、居心地が悪いところでした。
仕事のストレスから、辞めていく人も多くて、
人の出入りが激しい職場でした。
頑張っても頑張っても報われないような、虚しい仕事でした。
それでも、生活のために、辞めるわけにはいかず、毎日、
気持ちを振り絞って働くしかありませんでした。
そんな自分が嫌でした。そんな毎日が嫌でした。
そんな人生が無意味に思えました。

 そんな折、風の便りで、修行時代の仲間が、
勤め先に退職願を出したことを耳にしました。
彼は、とある大寺院に勤めていました。
元来、僧侶としての志が高く、その理想と現実とのギャップに以前から、
職場のあり方に納得していませんでした。
私は、彼が、「今、どんな気持ちでいるんだろう?」と思い、
電話を入れました。すると、彼はとても清々しい声で、私に話しました。
「あのつとめは、長い人生にとって単なる通過点だから…!
今は、ちょっと途中下車しただけだよ」

 私は、この言葉にハッとしました。
それは、今まで自分が考えもしなかった発想でした。
たとえ、どんなに嫌なことがあっても、自分の人生にとって、
単なる通過点と思う考え方。

 素晴らしい!たとえ挫折に思えるような事態になっても、
あまり重くとらえ過ぎず、悩み過ぎず、
途中下車したと思えばいいんだと…。

 その時の私は、現実に起こっている出来事に、
あまりにも捉われすぎていました。
考え方や、世界観が狭くなっていたようです。
その結果、自分自身の心に、ゆとりを失くしてしまっていました。
人生は、通過点を経て、時には途中下車しながら、
「最終的に目的地に到達すればいいんだ」と思えば、
今、どのような状況にあろうとも、自分の気持ちにゆとりが持てます。
余計なことで悩まなくて済みます。

 人生は長い……その途中に何があろうとも、
すべてが通過点でしかないのです!

 目の前の出来事に捉われすぎると大局を見失ってしまいます!

 嫌なことは、通過点!挫折は、途中下車!そう思えばいい。
人生まだまだ何が起こるかわからない。人生、これからです。
日々の出来事の中に、無限の可能性が潜んでいますから。


太陽出版望月泰彦著 『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

vol. 3650
「人間関係向上のポイント」  (2012/9/29 [Sat])
 こんな質問をいただきました。
「私は4月から新卒で会社勤めをしているのですが、
なんか職場での、人間関係がしっくりいきません。
どうしたらいいのでしょうか?」

 現代社会の悩み事ナンバーワンである人間関係。
まわりの人たちと噛み合わない人、シックリいかない人、
こういった人たちには、共通してある傾向性が見られます。
それは何か?それは、物事に対して、白黒ハッキリ決め
つけすぎだということです。言いかえれば、自分と同じ考え、
価値観以外は、否定してしまうんですね。

 誰だって、自分の考えや価値観を、むやみに否定されたら、
気分がいいわけないんです。つまり、
他者と上手くいかない人の傾向は、それは、
否定的人間だということです。

 ただし、イエスマンになれというのではありません。
自分とは違う考え、価値観を、むやみやたらに「イエス」と
言って、自分の考えを曲げるというのは、媚びへつらい、
妥協以外のなにものでもありません。

 なら、自分とは違う考え、価値観をどう捉えたらいいのか?
私自身も、このことに悩んだ時期がありました。しかし、
経験を重ね、乗り越えることができました。」

 結論としては、自分の考え、価値観と違うものを
否定するのではなく、肯定して自分の考えを曲げるのでもない。
もうひとつの選択肢…それは、認めることです。
自分の考えも曲げず、かつ、相手のことも認めるということですね。

具体的には、「その考えはダメだ」「その考えは違う」
とするのではなく、「そういう考えもあるんだね」もしくは、
「そういう考えがあってもいい」「そういう考えもありかも」
にするということです。これなら、自分と考えや価値観が違っても、
お互いをいかすことができます。自分と違う考えや価値観を、
受け入れることができなくても、受けとめることならできるんです。
否定的人間を卒業できれば、人間関係の幅が広がっていきます。

 物事は、白と黒だけではなく、中間色のグレーもあるんです。
私自身、相手を否定しがちな時は、孤立してしまいがちでした。
しかし、相手を認めることから、人との関わりが良い方向に進み、
おもしろくなっていきました。十人十色の言葉があるように、
色々な考えがあっていいんです。

自分と他人との違いに苦しむのではなく、違いを楽しみましょう。

 色々な人がいるから人生は面白い。自分と違うから人間は面白い。

自分の考えや価値観に固執しすぎると、結局、自分を苦しめちゃいますよ。


太陽出版 望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より


vol. 3649
「もう……くるしまなくていい」  (2012/9/28 [Fri])
 こんな質問をいただきました。
「職場の上司が変わってしまい、
ものすごく怒りっぽい人が来てしまいました。もう嫌です!
毎日が苦痛です。どうしたいいのでしょうか?」

 今、多くの人が、パワーハラスメントで苦しめられています。
いわゆる大人のイジメといってもいいのではないでしょうか。
私もサラリーマン時代、短期でガンコで怒りっぽい上司のもとで、
仕事をしていた時期がありました。まさに、起こりん坊将軍。
実にムナクソ悪い嫌な毎日でした。

日々、不条理な出来事の連続でした。私のみならず、
他の社員も皆、精神的ダメージを受けていました。
その上司が原因で会社を辞めていく人たちもいました。

 そんな折、中途採用の社員が、私の部署に配属になりました。
私は、「どうせまた、すぐ辞めちゃうだろう」と思っていました。
案の定、彼はいきなり初日から、怒りん坊上司の標的となり、
理不尽に怒られまくりました。

しかし、彼はまったく平気そうな表情を浮かべていました。
私は不思議に思い、彼に、「大丈夫なの?」と訊ねました。
すると彼は、「はい、大丈夫です。前の職場でも、
あ〜ゆ〜上司がいまして、最初の頃は、とても嫌でした」
と答えました。私は、「どうして怒られても、平気になったの?」
と聞くと、彼は、「その時の職場の皆さんが、あの上司は、
「怒りん病」という病気だから、しかたないね!
って言ってたんです。それで僕も気が晴れたんです」と言いました。

怒りん病?おおおおおお〜〜〜〜〜。
何と素晴らしい発想!怒りっぽい人は、
「怒りん病」という病気の患者と認識するんですね。

確かにそう思えば、相手に対する恨みつらみも消えて、
その人を見る目が、すべて哀れみに変わりますね。
つまり、気の毒な人だと思えるようになるんです。

 それ以来、私も、すぐ感情的になり、
人の気持ちを逆なでする人にあった時は、
「嫌な奴だ」から「気の毒な人だ」に変換することにしました。

そうすることによって、その人に対する悪感情が軽減されました。
「怒りん病」という病気が、一日も早く完治するよう、
心からお祈りすることにしています。

 仏教では、怒り狂った状態を、瞋恚といい、
地獄の境地と教えています。そんな状態に堕ちた人と
一緒に地獄の道連れになることはありません。
心から気の毒に思いましょう。いつくしみの心で接してあげましょう。

 人を苦しめることしか知らない人には、哀れみの心で接しましょう。

 怒りん坊は可哀そうな人。死ぬほど嫌いな人であっても、
視点を変えて見れば、その人の印象を変えることができるんです。


 太陽出版 望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

vol. 3648
「凡人であっても何かができる」  (2012/9/27 [Thu])
 こんな質問をいただきました…。
「私は文章を書く才能がありません。
どうしたら、お坊さんのような文章が書けるでしょうか?」

 率直にお答えいたします。私も才能はありません。
私は、学生の頃に一番得意だった教科は、数学でした。
そして、いちばん苦手だった教科は国語だったんです。
つまり私は、間違いなく文系ではなく、理数系の資質の人間なんです。

 でも実際、私のブログは、ありがたいことに、
多くの人からの支持をうけています。
だから、私は思うんです。人間は才能だけが
すべてじゃないということを。私は文章を書く才能は
もともと低い人間なので、文系の方のように、
湧水の如く言葉がポンポン出てくるわけではないんです。
ですが、探究心はあります。

他の方の本やブログを見て、自分が「これいいなあ〜」と
思ったやり方は、ジャンジャン取り入れています。
私は、才能はなくとも、探究心の鬼なんです。
私には才能なんてありません。ただ、自分の探求心があるところと、
ほかの人の良い面を認め、取り入れる柔軟性があるところの、
ふたつの利点をいかしているだけです。

 あまりにも、才能があるかないかに捉われすぎると、
何もできなくなってしまいます。とりあえずやってみて、
ダメだったら、ダメだった部分だけ改善していけばいいんです。
そうすれば、前に進んでいけます。

 職人と呼ばれる人に、才能あふれる人なんていません。
長い年月をかけて、失敗を重ねて、挫折を乗り越えて、
その素晴らしき技を磨いていったんです。つまり才能がなければ、
才能にかわる何かを見つければいいのです。
凡人でもいい、職人の如くあれ!

 才能なくても、能力低くても、それがどうした〜〜〜!
私は、一流の凡人を目指すんだ〜〜。


太陽出版 望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より




vol. 3647
「利他行」  (2012/9/26 [Wed])
こんな質問をいただきました…。
「私は人に対して、「妬み」「ひがみ」といった感情を抱いてしまいます。
そんな自分が嫌になります。どうしたらいいでしょうか?」

 人を妬み、ひがむ感情は、多かれ少なかれ、誰でも持っています。
しかし、そこから生み出されるものは、マイナスしかありません。
何ひとついいことはなのです。そえが、妬み、ひがみです。

そんな感情を持つと嫌な人間になってしまいます。
他人に対してどうしても歪んだ見方をしてしまいます。
そうはいっても未熟な私たちは、ダメだダメだと思っていても、
そういう感情を、簡単に消すことはできません。

 不眠症の人が「眠ろう、眠らなきゃ」と意識すればするほど、
逆に眠れなくなってしまうのと同様に、
「妬み、ひがみの感情を消そう、消さなきゃ」と思えば思うほど、
どんどんその思いは深まっていくのです。
では、どうすればいいのか?

 そもそも、妬み、ひがみの深い人の心理を考えると、
「自分がもっと活躍したい、評価されたい」という意識が強く、
結果、自分より活躍している人をうらやんでしまうのです。

しかしながら、人の喜びというのは、
確かに、自分が活躍する喜びもありますが、
けっしてそれだけではないのです。もうひとつの大きな喜びがあることを、
忘れてはなりません。それは、人から感謝される喜びです。

 人を妬み、ひがむ感情の強い人は、
自分が活躍する喜びしか求めていないのです。
もうひとつの喜び、人から感謝される喜びを知れば、
人を妬み、ひがむ感情は自然に消えていってしまうのです。

 では、そのためには具体的にはどうすればいいのか?
それは、「自分が!自分が!という気持ちを抑えて、
人を応援することに徹すればいいのではないでしょうか。

 人を応援することで、自分が応援した人が活躍し、
それを我が喜びとすることができます。
応援された人は、きっとあなたに感謝の念を持つはずです。

 仏教では、これを「利他行」と申します。

 サッカーも、ピッチに立つ選手だけが、
嬉しい思いをしているのではありません。
応援するサポーターもまた、一緒に喜びを分かち合っています。
そこに選手に対する妬み、ひがみなどあろうはずがありません。
人を応援することもまた、人生の喜びなのです。

 感謝される喜びが妬み、ひがみ感情をほどいてくれる!


太陽出版 望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

vol. 3646
「与えられた縁をいかせるか?いかせないか!」  (2012/9/25 [Tue])
 こんな質問をいただきました……。
「私は新卒で入社したばかりですが、
希望した部署に配属されませんでした。
やる気満々だっただけにショックです!
立ち直れそうにありません……。
何かアドバイスをいただきたいです。」

自分のやりたいことが定まっているのに、
意図せぬことをやらなければならないというのはつらいものです。
私の知人のKさんとYさんの二人も、大学を卒業後、企業に入社し、
本人たちは営業を希望していたのですが、
二人とも、もっとも行きたくないと思っていた
製造部門に配属されてしまいました。

 その後、Kさんは、やる気を失くし、毎日惰性で働いていました。
そして、常に、「営業だったらもっと、やる気が出たのに……」
とぼやいていたそうです。

 逆にYさんは、自分の与えられた職を誠心誠意こなしていました。
そして常に、「ここから何かを学ぼう」という姿勢で臨んでいたようです。
三年後、二人は、もともと希望していた営業部門に配置換えになりました。

 Kさんは、喜び勇んで営業に臨みました……。
しかし、実際の営業職は、Kさんが考えていた仕事とは、
だいぶ違っていました。Kさんは苦悩したあげく、
「製造に戻してください」と会社に申し出ましたが、
製造の方で、「あんな使えない奴はいらない」と断られてしまったそうです。

 Yさんはというと、やはり、営業という仕事が思っていたのとは
違っていて、最初の頃は、苦戦を強いられました。しかし、
製造部門との信頼関係ができあがっていたことから、
上手く連携をとりながら、営業成績を上げていきました。

 何事にも、一生懸命に取り組むYさんの姿勢こそが、
顧客からも、会社の内部からも大きな信頼となり、
営業成績につながっていったのです。

 たとえ、自分が望んでいなかったことであっても、
そこで学んだことは無駄にはならないんです。
人生すべてが学びです。そして、そこで誠心誠意を
捧げられるかどうかで、
自分自身の将来が築き上げられていきます。

大切なのは今何をしているかではなく、
今どう生きているかなのです。
生きる姿勢そのものが、人生の財産となる!


『太陽出版 望月泰彦著「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』



vol. 3645
「短期決戦なら大丈夫」  (2012/9/24 [Mon])
こんな質問をいただきました……。
「私はなんの仕事に就いても、長続きしません。
そんな自分が情けなくなります。いったいどうすれば、
定着できるようになるんでしょうか?」

 ひとつのことを長く続けていくと、
様々な困難や壁に突き当たります。
それを乗り越えていく人が、長続きし、
乗り越えられない人が脱落していきます。
それが仕事のことであったり、人間関係であったり、
その理由は、人それぞれですが、乗り越えていけば、
人として成長できるんですね。
そして、多くの人は乗り越えられるだけの潜在能力を持っているんです。

 では、困難や壁を乗り越えられない人は、
何が問題なのか?それは、困難や壁を
必要以上に重くとらえてしまうということです。
乗り越えてしまえば、「なんだ、こんなことで悩んでいたのか!」と
言えることも、たくさんあると思うのです。

 では、どうすればいいのか?私も、
勤めで辞めたくなったりすることなんかはしょっちゅうです。
そんな時、私は乗り越えるために必ず、
心の中でつぶやくおまじないがあります。

それは、「あと一週間だけやってみよう」と唱えるのです!
そして、そのあとに「やめるかどうかは、一週間後に決めよう」
と続けます。そうすると、自分の中で、
「嫌なことでも一週間だけならできそうだな」って納得できるんです。

 そして、つぶやくんです。そうすれば、また一週間続けられます。
あとはそれを繰り返すだけです。誰だって、
困難や壁にぶつかった時は、「もうダメだ」と思ってしまいます。
しかし、その「もうダメだ」は、「ずっと」は無理ということです。ならば、
その「ずっと」を消しちゃえばいいんです!

 仕事を辞めたくなったときのおまじない……
あと一週間だけやってみよう!



太陽出版望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

vol. 3644
「頑張らなくていい」  (2012/9/23 [Sun])
こんな質問をいただきました……。
「私は毎日困難に立ち向かって頑張ってきましたが、
何の成果もありません、もう限界です。
こんな時、どうすればいいのでしょうか?」

人間、頑張っても頑張っても成果が出ないと、
気力を失ってしまいます。誰だってそうです。
そのうちに、やる気そのものも失せてしまいます。

そんな時、どうすればいいのか?
実は「頑張る」という行為には、ひとつの大きな問題点があります。
それは何かというと、結果を求めてしまう。ということです。

結果を強く求めてしまうあまり、思うような結果に結びつかないと、
必要以上に落胆してしまうのです。

では、結果を期待しないためにはどうすればいいのか?
それは「頑張る」のではなく「ふんばれ」ばいいのです。

 私も修行時代、仲間がどんどんお経や所作を
マスターしていく中で、頑張っても頑張っても、
なかなか覚えられませんでした。皆に遅れまいと、
気持ちばかりが焦りました。
しかし、焦ることでなおさら余計なエネルギーを
消費してしまったんです。

 頑張りすぎたことが、自分自身に無理を強いることになり、
心身共に疲れ切ってしまい、悪循環を生んでしまいました。
たとえ、人より時間がかかったとしても、いつかは自分も、
マスターできる日が来るんです。そのことを忘れてしまいました。
私は、「このままでは自滅してしまう」と思い、開き直りました。

 「恥をかこうとも、たとえどうなろうとも、とにかく、
ここに踏みとどまればいいんだ」そう思うことにしました。
そうすると、気持ちが落ち着いて、焦らなくなりました。
空回りすることが、なくなりました。

 もう限界だと感じた時、それでもやらなければならない時、

頑張らなくていいんです。
無理しなくていいんです!
ただ、踏みとどまればいいんです!
それならできます!
結果は、きっと後からついてきます!
頑張れないなら、踏ん張ればいい!
人生は、粘ったもの勝ちです!


太陽出版望月泰彦著
『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より
 

「たったひとつしかない宝物……いのち」  (2012/9/22 [Sat])
〜仏さまと出会った女の子〜

 ある町に、中学生になったばかりの遥ちゃんと、
今日子ちゃんという幼なじみで仲良しの二人がいました。
ところが、その年の夏、遥ちゃんは急性白血病のため入院となり、
余命は長くても一年と宣告されました。

両親は残された時間を悔いのないように過ごしてもらいたい
という思いから、遥ちゃんに病気のことを正直に伝えました。
親友の今日子ちゃんにも伝えました。
しかし、遥ちゃんは、自分の命の期限の宣告を受け入れることができず、
激しく動揺し、その心は、絶望の淵へと落ちてしまいました。

私、本当に死んじゃうの?
誰も助けてはくれないの?
仏さまはこの世にはいないの?
私、まだ死にたくない!

失意の中、遥ちゃんは、心の中で叫び続けました。
そんな遥ちゃんのことを心配して、親友の今日子ちゃんは、
毎日、お見舞いに訪ねましたが、遥ちゃんは、
心を閉ざしたままでした。しかし、今日子ちゃんが綴った一通の手紙が、
遥ちゃんの凍った心を溶かしました。

遥ちゃんへ
遥ちゃんは今、
きっと暗闇の中にいるんでしょうね……
でも、私は遥ちゃんのこと、
最後まで見捨てないからね。
たとえ遥ちゃんが、どんなことになっても、
ずっとずっと親友だからね。                      今日子より


遥ちゃんは、奇跡を信じて、最後まで病気と闘うことを決意しました。
その年の暮れ、遥ちゃんの両親と今日子ちゃんで、
遥ちゃんの十三歳の誕生日パーティーを開き、
皆で楽しいひとときを過ごしました。そして、その一カ月後、
遥ちゃんは、眠るように息を引き取りました。病室の片隅に、
今日子ちゃんに宛てられた一通の手紙が残されていました。

今日子ちゃんへ
私が不治の病になり、
絶望の中で残された時間を過ごしている時、
私の心に希望を与えてくれたのは、
今日子ちゃんでしたね。
あの時、私は、
この世には仏さまなんていないって、
思ってしまったけれど……
私は、最後の最後に、
仏さまに出会うことができました。
仏さまは、今日子ちゃんの心の中にいました。
お父さんや、お母さんの心の中にいました。
だから私は、
この世に生を受けたことを本当に幸せだと思っています。     
                           遥より

遥ちゃんは、感謝という素晴らしい宝物をいただいて、
仏さまのもとへ安らかに旅立っていきました。

お父さん、私を育ててくれてありがとう。
お母さん、私を生んでくれてありがとう。

いのちに感謝し今を生きる。


太陽出版望月泰彦著
『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より



vol. 3642
「自分の心持ちで180度変わる」  (2012/9/21 [Fri])
 人生って、いったい何のためにあるのか?
考えたことはありますでしょうか?
誰もが皆、共通して思っているのは、幸せになるためですね。
どうすれば幸せになれるのか?
それを見つけるために、人生はあるのかもしれません。

 人としての真の幸せの境地に達せられた方、その方こそ、
お釈迦様なのです。だから私たちも、
お釈迦様のお心に近づけば近づくほど、
真に幸せを得ることができるんです。

 では、お釈迦様のお心とは、いったいどのような心を言うのか?
知りたいですよね?それは、いつくしみの心です。
いつくしみという言葉から連想されるのは、思いやり、優しさ、
愛情、等々ですが、単純にそうではないんです。

 小さな町の小さなお寺のお坊さん流に
いつくしみの心を解説すると、こうなります……。

い  いきとしいけるものを尊ぶ心
つ  つよい意志を貫く心
く  くるしみを分かち合う心
し  しんじきる心
み  みをもって示す心


どういうことか?
例えば、人の愚痴を聞いてあげるのは、けっこうキツイですよね。
なぜキツイかといえば、愚痴とはマイナスの念だからです。
マイナスの念を受けるのですから、そりゃキツイですよ。
こちらが「しょうがない聞いてやるか〜」という心持ちで愚痴を聞くと、
相手は、「この人は、ぜんぜんわかってくれない」と、
ますますマイナス想念になってしまい、
受ける側はますますキツイ状況に陥ります。

 しかし、これをいつくしみの心で聞いてあげると、違うのです。
相手の気持ちを尊び、「なんとかしてあげたい」という志で相対し、
相手の苦しい心境を、我ことの如く思い、
「きっと良くなる」ことを信じきって、それを、態度や行動で示す。

 そうすることによって、相手は、
「この人は、自分のことを真に思ってくれている」と感じ入り、
「嬉しい」「ありがたい」、「感謝します」、「頑張れます」と
いったプラスの念となり受ける側は、プラス想念を受けることになります。
つまり、いつくしみの心で生きることで、愚痴を聞くことですら、
互いの幸せにつながっていくんです。
これは仏教の目指すひとつの到達点でもあります。

 みんなが、お釈迦様のお心となれば、真の幸せ、永遠の平和が実現します。


太陽出版 望月泰彦著
『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

vol. 3641
「捧げる喜び」  (2012/9/20 [Thu])
「捧げる喜び」

 病気になりたくて病気になった人はいません。
病はつらく苦しい……。自分自身にしかわからない苦しみです。

 なぜ、自分がこんなつらい思いをしなければならないんだろう。
自分はいったい何のために生きているんだろう……。

 そんな思いにさいなまれます。かくいう私も、
何年も持病を抱えながら今を生きている一人です。
病と闘っている人たちへ、私の尊敬する
今は亡き日勇上人のこの言葉を捧げます……。

 捧げる喜び

受けることよりも
与えることはさらに幸いである

ほどこしも奉仕もすべて
捧げることの幸いを教えている

だが病床に永くいるあなたは
捧げるものなきをかこつだろう

あるのです
今あなたにできるほどこしがある

あなたを見守る周囲の人に
つとめて笑顔をほどこしなさい

訪ねてくる人々に
感謝のまことを捧げることだ

与えることのしあわせがわかる
捧げることの喜びがわかる

時には、病と闘って頑張っている自分をねぎらって
ほめてあげてくださいね。私も、持病の症状が悪化したときは
つらく苦しいですが。病と相対することも
また人生の大切な修行だと信じて、頑張っています。
だから、私は今、病と闘っている人を心から尊敬します。

太陽出版 望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

vol. 3640
「自分の弱さに克つために」  (2012/9/19 [Wed])
 人間には、それぞれ得手、不得手があります。
得意な分野、苦手な分野、これは人によって違います。
得意なことばかりやって生きていければいいのですが、
そういうわけにいかないのが世の常です。

 実は私には、ものすごい苦手なことがありました。
それは何かというと、人前で話をすることです。
私は子どもの頃から極度のあがり症でした。
なので、ずっとそういうことを避けてきました。

 しかし、大人になってから、僧侶となるために、
長期間修行することになり、何十回と、
人前で法話をすることを課せられました。
あがり症の私にとって、それは、とても耐えがたい辛い修行でした。

 仲間の修行僧が、回を重ねるごとにどんどん法話が
うまくなって行くのに対して、私はいつまでもあがり症が抜けず、
やればやるほど、自分に自信を失くしていきました。
本当に惨めでした。まるで自分一人だけが
仲間から取り残されていくようでした。
そんな様子を見かねたのか、法話の達人だった恩師が、
私にアドバイスをしてくださいました……。

実は私も若い頃、すごいあがり症で、人前で話すのが、
本当に嫌いだった顔が真っ赤になって、声がふるえて、
のどがカラカラになり、息をするのも苦しくなるほどだった。
当時はそんな自分が情けなかった。しかし私は、
どれだけ恥をかいても「絶対に逃げない」と、
心に決めてやり通した。

その経験が、自分自身の自信につながったのだ。だから今は、
思いっきり恥をかきなさい。話が下手でもいい、
みっともなくてもいい。大切なのは上手く話すことではない。
逃げないこと。そして、最後までやり抜くこと。
あとは、仏様にお任せしなさい。

 そんなふうに言ってくださいました。八方ふさがりだった私にとって、
本当にありがたいお言葉でした。

 思えば私は、やる前から気持ちが逃げてばかりいました。
心のどこかで「自分はあがり症だから、こんなことを何度やっても
上手くいくはずがない」と言い訳ばかりを考えて、はなから
逃げ道ばかりを探していたような気がします。

 そのアドバイスをいただいてから私は、人前で法話をするたびに、
どれだけ恥をかこうとも、恩師が指南くださった、
「絶対逃げないこと、そして、最後までやり抜くこと」という言葉を、
心の支えにしてきました。

 それからも、数えきれない失敗を重ねました。
たくさん恥もかいて来ました。心ない人には、
バカにされたりもしました。しかし、「絶対に逃げない」
「最後までやり切る」と腹をくくってからは、
人前で恥をかくことが、怖くなくなりました。

 あれから何年もの歳月が過ぎ去りました……。
そして、今、私は、極度のあがり症を克服しました。

 あの恩師のアドバイスがなかったら、
今でも弱い自分の心に打ち勝てていなかったち思います。
私は、恩師に対する感謝の気持ちをいつまでも忘れません。
そして、その恩を、これからも絶対に逃げないことで、
自分の生き方でお返ししようと、今でも実践しています。

 自分の苦手なことを克服するコツなんてありません。
ただ、本気で克服したいのなら、逃げないこと。
何があっても最後までやり抜くこと。それを積み重ねるだけです。

 失敗しても、挫折してもそれでも立ち上がれる人間が一番カッコイイ。


『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』太陽出版望月泰彦著より

vol. 3639
「本当立派な人間の態度」  (2012/9/18 [Tue])
 私が、僧侶になりたての頃、初めて地区のお坊さんの
会合に出席したことです。まわりは皆、
ずっと年上の先輩ばかりだったので、私などは、
誰からも相手にもされず、非常に肩身の狭い思いを強いられました。

あまりにも居心地が悪くて私の心の中は、
早く帰りた〜いという思いでいっぱいでした。
毎回、こんな状態に陥らなければならないのかと、
考えただけで、気持ちはブル〜になりました。

 ところが、会合が終わったあと、嬉しいことがありました。
その時のまとめ役だった、私よりもずっと年配のお坊さんが
「今後ともどうぞよろしくお願いいたします」と、
丁寧に頭を下げておっしゃってくれたのです。

 こんな新米の下っぱの私のことを、そんなふうに
大切に扱っていただいたことに大感銘を受けました。
それからも、私のことを、ずっと丁寧に扱ってくださいました。

 あれから、かなりの年数が経ちましたが、
今でもそのお坊さんに対しては、
強い感謝の思いと尊敬の念があります。

 とかく人間は、自分より立場の低い人間を見下げて、
軽んじてしまいがちですが、そんなちっぽけな優越感からは、
何も生まれてはきません。

 やがては、今の政治家の世界のような、みにくい足の引っ張り合い、
潰し合いになるだけです。本当に立派な人間は、
どんな人間をも見下げたりはしません。

 人を敬う気持ちから真の信頼関係は築かれていきます。

 人に尊敬される人間は、まず自分から人を尊敬しています。


『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』望月泰彦著 太陽出版より

vol. 3638
「意識改革のすすめ」  (2012/9/17 [Mon])
 私たち僧侶を呼ぶ時に、一般に「上人」と呼ぶのですが,
実は私はこの「上人」という言葉が大嫌いでした。
なぜ嫌いだったかというと、「上人」とは、上の立場の人の略ですよね。
だから好きになれなかったんです。

私たち僧侶(僧侶に限らず誰も皆)が生きる上で、
心して気をつけなければならないこと。それは奢り、
高慢です。慢心こそ最大の敵と言います。最初は、
良き心根や資質を備えた方でも、この奢り、高慢でダメになって
しまった人を、私は何人も見てきました。

お坊さんは、どうしても、檀信徒の方々から仰ぎ見られることが多く、
あげくの果てに、のぼせ上り、自分は偉いものだと
思い込んでしまいがちです。困ったものです。
偉いのは、仏様でありその教えである教典です。
勘違いしてはなりません。なので、
この上人(=上の立場の人)という表現は、
何か、はなからおごり高ぶった感じがして、
どうしても好きにはなれませんでした。

 そんなある日、私が尊敬している先輩の僧侶と、
その話が出ました。私は当然先輩も、
この言葉を嫌っておられるものと思っていたのですが、
そうではありませんでした。先輩は言いました……。
「私も最初は嫌いだったけど、
今は素晴らしい言葉だと思っているよ。
なぜなら、上人=上を目指す人なのだから」
あっと、思いました。な、なんと、私が、
奢り高ぶった言葉だと嫌っていた「上人」という言葉が、
この瞬間、私の中で最も謙虚な言葉になってしまったのです。

 上人=上の立場の人 ではなく、上人=上を目指す人 
捉えれば、良かったんです。それ以来、私は、あれだけ大嫌いだった
「上人」という言葉が大好きになってしまいました。
何事も、自分自身の受止め方ひとつで、
その印象が大きく変わることに気づかされました。
例えば、
変わり者⇒個性的な人、
はぐれ者⇒一匹狼、
口うるさい人⇒自分を鍛えてくれる人、
暗い人⇒控えめな人、
目立ちたがり屋⇒皆を楽しませてくれる人、
八方美人⇒社交上手な人、
融通のきかない人⇒意志の強い人……等々。

 こうやって、自分の嫌いなものを、ひとつでも減らしていけば、
毎日が、とても暮らしやすい環境となっていきます。
世の中、相手が自分の好み通りになってくれればいいのですが、
そんな都合よくはいきません。
だから、自分の方から、物事の受け止め方の意識を
変える習慣を心掛ければいいのです。
自分自身の意識改革です。
受け止め方を変えれば、世界が変わる ということです。

何事も、自分しだい。難しいかもしれないですけど、
目指していきましょう。日々の修練が大切です。
憂鬱な毎日にサヨナラするために……。


『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』
望月泰彦著より

vol. 3637
「苦しんだ経験、悩んだ日々、それこそが慈悲へとつながる道」  (2012/9/15 [Sat])
 最近私は、とても嬉しかったことがあります。
それは、ずっと応援してきたある難病の女の子が、
先日、数カ月に一度受ける定期健診で、
症状が良くなっていることがわかったんです。その日に、
検診があることは知っていましたが、そんな診察結果になるのか?
私自身もドキドキでした。

 私は、「小さな町の小さなお寺のお坊さん」と名乗っていますが、
「小さな町の小さなお寺の小さな心のお坊さん」なんです。
だから、たくさんの人の心を救えるような
そんな大それた器ではありません。自覚しています。

 ですが、たった一人の人間の心なら、もしかしたら、
こんな小さな私でも、救うことができるかもしれない。
そう思い、その女の子を、ずっと応援することを心に誓いました。
そして先日の定期検診の日、私は、祈るような気持ちで、
結果を待ちました。……と同時に、もしも、悪い結果だったならば、
女の子に、どんな言葉をかけたらいいのかと、ずっとずっと考え、
思い悩んでいました。

 そして、その日の夕刻、その女の子のブログに、
検診結果が綴られていました。完治ではありませんでしたが、
病状は、良い方向に進行している結果が出たというふうに、
記されていました。私は、あまりの嬉しさに、目頭が熱くなり、
涙が止めどなく流れて落ちてきました。「良かった、本当に良かった」
心からそう思いました。

 私も、これまでの人生、たくさん苦しみ、たくさん悩んできました。
しかし、世の中には、私なんかよりも、ずっと苦しい
人生を送られている人がたくさんいます。
十代という若さで難病が発症し、その痛み・苦しみと
闘うことになった彼女も、その一人です。でも私は、
彼女のことを気の毒に思って応援しているのではありません。
私には、残念ながら、病で苦しんでおられる人を、
救う力はありません。しかし、彼女ならばきっと、
将来多くの人たちの心を、病から救うことのできる人間になる。
そう確信しています。それは自らが身をもって苦しんだからこそ
できるんです。苦しんだことのある人間でなければ、
苦しんでいる人の気持ちにはなれません。今、彼女は、
医学の道へと進むことを決意し、進学することを、心に決めました。

 苦しみは、転じて、慈悲となり、慈悲は、
救い難き者の心をも救う力となる!!

苦しみ悩んだ人間こそが、のちに多くの人の希望となる。
人生が一本の木であるならば、嬉しいことは花であり、
楽しいことは実であります。とかく人は、
花や実ばかりを求めてしまいがちです。しかし、
そればかりでは、強風にあおられれば、
木は簡単に倒れてしまします。人生もしかりです。
深い根があってこそ、木はたっていられるのです。
苦しみや悩みは人生の根となる源なのです。

 人は苦悩の数だけ根を深くする。

『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』望月泰彦著より

vol. 3636
「すべての存在に意味がある」  (2012/9/15 [Sat])
 世の中、プラス思考の強い人もいれば、
マイナス思考の強い人もいます。私はどうかというと、
プラス、マイナス両面持っています。しかし私は、
人間にはプラス面、マイナス面両方とも必要だと思っています。
なので、自分の中にあるマイナス思考を恥ずかしいとは思っていません。
それを実感した体験談があります。

 私は以前、派遣会社に勤めておりまして、
そこで現場の主任を任されていました。
十人の従業員の追加を依頼され、人事担当のマネージャーが早速、
人材の募集をかけたところ、十五人の人が募ってきました。
私は過去の経験から、採用を辞退する人もいるだろうと考え、
マネージャーに早急に二次募集をかけるように頼みました。
するとマネージャーは、
「大丈夫だよ、心配するなよ、十五人もいるんだ。
君は悲観的で、マイナス思考が強すぎるよ」と言い返されてしまいました。

 しかし、現実はそう甘くはありませんでした。
会社説明を受けたあと、辞退者が続出し、結局、
十五人中たった二人しか残りませんでした。
マネージャーは、八人もの欠員をだし、
依頼を受けていたクライアントから、ウチの派遣会社は、
著しく信頼を失ってしまいました。
これを聞いて、それまで現場で一生懸命頑張って働いて、
クライアントからの信頼を保っていた現・従業員は落胆し、
何人か転職してしまいました。マネージャーの楽観的な考えが、
多くの人に、多大な迷惑をかける結果となってしまったのです。

 世の中では、プラス思考の人ばかりがよく言われますが、
果たしてそうだと言い切れるでしょうか。
やはり、プラス思考もマイナス思考も両方とも
存在する意味があるんだと思います。

だからマイナス思考が強いからといって、
けっして負い目を感じることはないと思います。
プラス思考にも、メリット、デメリットがあり、
マイナス思考にもメリット、デメリットがあるんです。

要は、マイナス思考のメリットをいかせばいいんです。
プラス思考=○、マイナス思考=×は、あまりにも浅はかな考えです。
プラス思考=矛(ほこ):オフェンス 
マイナス思考=盾(たて):ディフェンス 
と考えればいいと思います。

 私は、マイナス思考面のメリットである、
慎重であること危険回避能力が高いこと、
をいかしています。「マイナス思考がダメだ」と考えるから
ネガティブになってしまうんです。マイナス思考にもメリットがあり、
それをいかそうと考えれば、そこにもポジティヴが生み出せます。

すべての存在にはそれぞれの意味があるんです。

プラス、マイナス両方=○プラス思考もマイナス思考も
すべてはいかし方ひとつということですね。


「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ」太陽出版 望月泰彦より

vol. 3635
「等身大の自分で生きる」  (2012/9/14 [Fri])
 私の身長は、170センチ代前半です。日本人男性の平均身長です。
本音を言えば、もう5センチほど高かったら、かっこ良かったのにな〜、
なんて思いますが、こればっかりはどうにもなりませんね。

 もし私が、「自分の残りの人生のすべてをかけて
身長を5センチ伸ばして見せる」と言ったら、皆さんはおそらく、
「馬鹿な奴だな〜(嘲笑)」と笑うでしょうね。当たり前です。
今さら伸びるわけがない。そんなことに、
自分の残りの人生をかけても、無理なものは無理なのですから。

 しかし、多くの人はなれもしない自分の偶像を夢みて、
自らの心を苦しめてしまっているように思うのです。
つまり、自分じゃない自分になろうとして行き詰るんです。
まさにそれが苦しみの要因です。

 私は修行時代、お坊さん事は何をやってもダメでした。
そんな自分が嫌でした。修業時代の仲間が、
いとも簡単にこなすようなことも、私には、
高い高いハードルでした。まさに劣等生。
しかし、そのダメな自分が、ありのままの自分であることは、
まぎれもない事実だったのです。

 「これは、本当に自分じゃない」と、言い聞かせたところで、
自分が劣等生であるという現実からは、逃れることはできません。
「こんな惨めなのが、自分なのか』と落ち込んだ時期もありました。
しかし、そのダメな自分を、勇気を出して、認めるしかないんです。
認めた上で、そのありのままの自分を嫌わず、
そのまんまいかすんです。絶対にいかせる場所がどこかにあります。
私にとって、ありのままの自分を生かせる場所は、ブログであり、
そのまんまいかした結果が、
この「小さな町の小さなお寺のお坊さん」のブログなのです。

 このブログは、まさに、ありのままの自分そのものなんです。
まったく背伸びしていません。そしてかっこつけずに、
自分の弱さをそのまんま表現したからこそ、
多くの人たちから支持をいただけたのだと思うのです。
自分以外の自分になろうとするから悩むのです。

 ありのままの自分でいいんです。ありのままの自分を
いかすことを考えましょう。あなたはそのままで十分に素晴らしい。

 必ず自分をいかせる場所がある。絶対にある。人生は、
ありのままの自分をいかせる場所を見つけるための旅。


『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』太陽出版 望月泰彦著より



vol. 3634
「現代社会における心のオアシスとは」  (2012/9/13 [Thu])
 『共感は、全世界の人間を親族にする』
ウィリアム・シェークスピア氏の言葉

自分自身の苦しみ悩みというものは、なかなか他人には
理解してもらえないものです。その状態を「孤独」と言います。

 先日、福祉の世界でケアマネージャーをされている
女性と知り合ったのですが、その表情は疲労感に満ちていました。
何十人という数の利用者を、いっぺんにマネージメントしなければ
ならないという過酷な仕事です。どれだけ一生懸命やっても、
やり切れず、利用者やその家族からの不満は絶えません。

 さらにその中で、書類等、事務処理も膨大な量を
こなさなければなりません。その上に、職場の上司からも
プレシャーもかけられ、振り回され、「もう無理」という精神状態の中で、
それでも生きるためには、無理にでも続けなければならないのです。

 私は、その彼女の苦しい胸の内を、ずっと聞き、
それに同調する言葉を、絶えず伝えました。
誰一人、まともに聞いてわかってくれる人はいなかったそうです。
それはそうです。その業界の話をされても、その内情は業界の
人間しかわかりません。しかし、同じ業界の人間は皆、疲れきっていて、
心にゆとりがなく、他人のことなどかまうほど余裕はないのです。
彼女の家族も、専門的な話をされても、理解できるはずもなく、
心配はしてくれても、いったいな何が苦しいのか、
本当のところはわからないのです。彼女は、
ずっと苦悩と孤独感の中で毎日を過ごしてきたんです。
ストレスは蓄積される一方でした。

 そんな彼女が、最後に私に言った言葉、
「今日、心が癒されました。どんより曇っていた気持ちに
陽射しが当たりました。こんな気分は久しぶりです。ありがとうございました」

 私は、彼女に何ひとつ彼女にアドバイスは言っていません。
ただひたすら、彼女の言葉ひとつひとつを受け止めて、
共感しただけです。……というのは、以前、私も最も苦しかった時、
たくさんの人がアドバイスをくれましたが、どれひとつ、
私の心には響かなかったのです。

なぜか???それは、私の苦しい状況を、
誰一人理解できていなかったからです。
私がどれだけの苦境に立たされていたか。
自分自身が同じ状況にならないと、一生わからないのだと思います。
私はただ、自分が今どれだけ苦しい状況にあるか、
少しでも分かってほしかった、共感してほしかった。
それだけで、心は救われたんです。

 まず大切なことは、その人の気持ちに寄り添い、共感することです。
むやみに意見を言えば、逆効果です。
本人にとって本当に切なく感じることは、
誰にもわかってもらえないことです。

 現代人の心の癒し、それは、まず共感することです。
人に共感するって簡単なことじゃないですが、
少しでも自分がそんな人間に近づけたら素敵です。


『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』太陽出版 望月泰彦著より

vol. 3633
「人生を飛躍させるために何をなすべきか」  (2012/9/12 [Wed])
「人生を飛躍させるために何をなすべきか」

『人よりほんの少し多くの苦労、人よりほんの少しの努力で、その結果は大きく違ってくる』鈴木三郎助の言葉より

 私は、ブログ記事を作成するにあたって、
ひとつのポリシーを持っています。それは何かというと……、
一度完成させた記事に対して、もうひと頑張り、
手を加えてみるというものです。言いかえれば、
現状に満足することなく、常にもう一歩だけ努力してみるということです。

 具体的に例を挙げると、完成したブログ記事に対して、
もうひとことだけ言葉を加えてみる、もう一コだけイラストを入れてみる、
もうひとつだけ新しいアイデアを試してみる、といった具合です。
この、あともう一歩だけをやるかやらないかで、永い人生、
あとあと大きく変わってくるんです。私は、そこを重視しています。
このブログは、そのあとひと努力を、ひたすら積み重ねてきたものです。

 人間は、坂道を登るが如く、努力しただけ上昇していけば、
やる気も増してくるのですが、実際はそうではありません。
努力を積み重ねても、なかなか結果に結びつかないのが現実です。
しかし、ここでひとつ、大切なことを言わせてもらいます。
人間の成長は、坂道の如くではなく、実は階段の如くなんです。

 どういうことかと言うと……、努力しても、
結果が表には現れない停滞期間があるんです。
でも、水面下では、成長してるんですね。
かたちとしては現れないだけなんです。

 人生がもし坂道だったら……、努力したら、しただけ、
比例するように、上に登ります。これならいいんですが、
人生は坂道ではなく、階段なんですね。つまり、階段ですと、
努力しても上には上がれず、平行線のままです。これが、
いわゆる停滞期間です。しかし、ここであきらめずに、
さらにちょっとずつ努力を重ね……、ある地点まで進むことができれば、
ガクンと、一気に駆け上がれるんです。これが、
人生=階段ということなんです。

 多くの人は、努力しても平行線のままの状態に、努力することを、
あきらめてしまってるんです。もったいないですね。
「自分はもうここまで」と思った時こそ、あともう一歩だけ努力してみる。
それを積み重ねることができるかどうか。
目に見える結果が出せない時、そこで踏ん張れるかどうか。

 人生は、立ち止まりそうになった時、ほんのちょっとの努力。
ただそれを繰り返すだけ。
「もうダメだ」「いやもうちょっとだけ頑張ろう」「やっぱりだめだ」
「いやもうちょっとだけ踏ん張ろう」この繰り返しが私の人生なんです。
私はこうやって弱音を吐きながら、それでも、前に進んできました。

 弱音を吐いてもいい、愚痴をこぼしてもいい、そのあと、
もう一歩進めるかどうかが大切なんです。

 人生は階段を上がるが如く

人生は、「あともう一歩だけ頑張ってみよう」の繰り返しです。


『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』
太陽出版 望月泰彦著より

vol. 3632
「蜂もただの虫?!」  (2012/9/11 [Tue])
 世の中、自分と相性や価値観が合う人ばかりだったらいいのですが、
そんな訳には生きません。合わない人、嫌いな人、苦手な人と、
どう接したらいいのか?悩んでおられる方も、
多いのではないでしょうか?特に、嫌いなタイプ、苦手なタイプの人が、
自分の上役になったら最悪です。毎日が、憂鬱になってしまいます。

 必ずしも、人間的に立派な人が、出世するとは限らないんですね。
その結果下の者が苦労します。
運が悪かったと諦めるしかないのでしょうか?
嫌いな人、苦手な人との接し方で、良く耳にする言葉は、
「どんな人間にも、良いところが必ずあるから、
相手の良い面を見つけて、好きになるよう努力する」といったものです。
この考えは、けっして悪くないし、効果もあると思います。
しかし、それだけでは済まないくらい、
どうしても好きになれないという人も存在します。

 そのような死ぬほど嫌いな人を、無理に好きになろうとすると、
過度のストレスとなり、必ずオーバーヒートしてしまいます。
私も以前、死ぬほど嫌いな人が上役になった時、
毎日、精神的苦痛を覚えました。なんとか突破口はないものか?
この状況を打開するすべはないものか?
悩みに悩み、考えに考え抜きました。

 そんなある日、私の目の前に一匹の蜂が飛んできました。
でも、私はあまり怖くないんです。実は私には特技があって、
何かというと、蜂を手でつかまえられるんです。ホントに!
%uE69191まえ方のコツがあって、ギュッと掴んでしまうと、
間違いなく刺されます。蜂は、身のキケンを察知するからです。

 しかし、包み込むようにやさしく自然に、蜂の方から
手にたかるようにしてあげると刺されません。
そうすれば蜂は、私の手を敵だとは認知しないからです。
たとえ皆が嫌う蜂であっても、
敵意をむき出しにしなければただの虫なんです。

 ただし、けっしてマネはしないでくださいね。
繊細なセンスが必要ですから!私のこんな特技、
何の役にも立たないと思っていました。
 
 でも、この技を人間関係にも応用することができたんです。
嫌いな人、苦手な人を、好きになることは、非常に難しいことです。
だから、無理に好きにならなくてもいいんです。
ただし、敵として思わないことです。ここが肝心です!
自分の方から、心の中で相手に敵対心を向けると、
相手もそれを察知し、そこから、摩擦や苦しみが生じてしまうのです。
人間、自分と合わないような人と接すると、知らず知らずのうちに、
敵だと認知し、心の中で闘おうとしてしまっているのです。
ここを正していきましょう。

 キケンな蜂もこちらの出方しだいでただの虫になるように、
自分の嫌いな人も、苦手な人も、敵だと意識しなければ
ただの人となります。自分に合わないからといって
敵になる必要はないのです。肯定できなくとも、否定しないことです。
相手を否定すればするほど、それが苦しみへと変わります。

 さあ、自分の心の中でつくってしまった敵をどんどん減らしていって、
毎日を気持ちよく過ごしましょう。


太陽出版 望月泰彦著
『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』

「失うことのない誇り」  (2012/9/10 [Mon])
 ある日、私は出先にてラーメンが食べたくなり、
とあるラーメン屋に入りました。
すると、とても明るい爽やかな声で、「いらっしゃいませ〜」という声が、
私の耳に入ってきました。

 それは、そこで働く50代半ばぐらいの
人の良さそうな店員のおじさんの声でした。
おじさんは終始、飾り気のない笑顔で誠心誠意、
お客さんに接していました。

 注文をとる時も各ラーメンの特徴を、
親切にとてもわかりやすく説明してくれました。
常連のお客さんは、おじさんに気さくに話しかけていて、
店の中は、常に笑顔が絶えませんでした。

 お客さんを見送る時も、「ありがとうございました!
またぜひお越しになってください。お待ちしております」と
心の底から言っていました。
おじさんの言うひとことひとことが心に響きました。
本当に気持ちのこもったものだということが、伝わってくるんです。

 私は、何に対しても、手を抜かずに働いているおじさんのことを
「立派な方だな〜」と感じ入り、その店をあとにしました。

 それから数カ月後、偶然にも私は、そのラーメン屋の
店員のおじさんの知人とお話しする機会があり、
おじさんのことを聞かせてもらいました。

 おじさんは、一代で築いた会社の社長だったそうです。
しかし、この不況の折、関連会社が相次いで倒産し、
そのあおりでこげつきを出し、おじさんの会社は、
不運にもまわりに巻き込まれて倒産してしまったそうです。
借金も抱えられて、家族とも、今は離れ離れで暮らされているそうです。

 おじさんは、社長時代、社員から慕われ、
とても尊敬されていたそうです。会社の社長の座から落ちて、
ラーメン屋のいち店員になろうとも、仕事に対するその姿勢は、
まったく変わられていないそうです。

 素晴らしい!自分の今ある境遇に不満を
言っていたらキリがありません。その状態のままでは、
自分自身にとって、あまりにも不幸な毎日です。

 幸せは、どこか遠くから運ばれてくるものではなく、
自分の心の持ち方しだいで、今ある境遇の中から生み出すものです。

 私は、おじさんの誠心誠意働く姿に、たとえ今、
どんな境遇にあろうとも自分のやっていることに誇りを持って
生きている人は常に人生が輝いている。
このことを学ばせていただきました。


 人生は、心の持ち様です!生きる姿勢です!


太陽出版 望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

「愛は四季のごとく」  (2012/9/09 [Sun])
『一気に燃え上がり、燃え尽きるような恋は決してするな!』
宗方仁「エースをねらえ!」の言葉より

 ある日のことです。散歩をしていると、老夫婦がベンチで
仲良さそうに座っていました。互いに穏やかな笑顔を浮かべて、
とても楽しそうに、二人で会話されていました。
「理想的なご夫婦だなあ〜」と微笑ましく思いました。

 その時、私は、友人の女性が、
「結婚したら、彼との関係がつまらなくなった」なんて言っていた
ことを思い出しました。確かに出会った頃は、お互いが何もかも新鮮で、
すべてが素敵な出来事に感じるでしょう。
それはまるで新緑のようなものです。しかし、若い頃の燃えるような
恋をいつまでも期待し、引きずったところで、
それがず〜っと続くなんて思ったら、
それは虚しい幻想でしかありません。
やはりその年齢に応じた愛のかたちというものがあると思うのです。

 出会った頃のようなときめきをいつまでも求めている人、
「あの頃に戻りたい」という意識が強い人、
そういう人は新緑の愛のかたちしか知らない人です。
しかし、葉も永遠に新緑のままではいられないのです。
やがて色を変えて生き宿命なのです。愛にも、
「新緑の愛」だけではなく、「紅葉の愛」が存在するのです。

 人はとにかく、異性に刺激を求めがちですが、
空気のような存在こそ、実は自分にとって、なくては
ならない存在なのだということを忘れてはならないのです。
「そばに居てくれるだけでいい」「大切な人の笑顔があるだけで幸せ」

 こんな関係こそ、「紅葉の愛」なのです。一緒に月日を重ねる毎に、
「新緑」から「紅葉」の愛へと、そのかたちを変えていけばいいのです。
夏の青々とした新緑も素敵ですが、
秋の鮮やかな紅葉もまた、素晴らしいのですから。

 四季があるように、人の愛も、その季節に合ったかたちへ
と姿を変えていくのが、自然のあり方なのです!


 年齢に応じたかたちを大切にしていきましょう!


太陽出版 望月泰彦著
『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』より

「行動が愛の証」  (2012/9/08 [Sat])
 私自身が共感した言葉を、紹介いたします。
 『愛情にはひとつの法則しかない、
それは愛する人を幸福にすることだ!』
              スタンダール氏の言葉より

 修行時代の仲間には、既婚者もいました。
その彼に結婚の馴れそめを訪ねたことがあります。
彼はけっこうモテたらしく、あえて特定の彼女は作らず、
複数人の女性と、友達以上〜恋人未満の関係で
お付き合いしていたそうです。

 そんな彼も結婚を考える歳となり、ちょうど、お付き合い
していた女性のAさんとBさんから求婚されたそうです。
彼は迷ったあげく、その二人の女性の結婚の申し出を,
あえて、お断りしたそうです。

 するとAさんは、「嫌です!絶対にあなたと結婚したい!」と
譲らなかったそうです。しかし、Bさんの方は、
「わかりました」と彼の意思を尊重し、身を引いたそうです。

 そして、彼が選んだのは、Aさんではなく、
潔く身を引いてくれたBさんの方でした。
彼は、相手を困らせまいと、あえて身を引く決断をしたBさんの
気持ちこそが偽りのない愛だということを確信したのでした。
彼とBさんは、とてもいい夫婦関係を築き、今に至っています。

 愛には、二つ存在します。ひとつは、
自分の幸せを最優先する自己愛。
 もうひとつは、相手の幸せを第一に考える利他の愛。

 真実の愛は、どちらか……?それは言うまでもありません。

 真実の愛はうわべや口ではなく、
その人の行動によって現れてくるものなのです。

 あなたを本当に愛している人は、むやみにあなたを困らせたり、
あなたの心を傷つけたりはしません。

 愛は自分へのメリット、デメリットを超えたところに
存在するものなのです!

 相手の笑顔こそ、自分の喜び
 相手の幸せこそ、自分の幸福



望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」太陽出版より

vol. 3628
「人生に苦しまないコツ」  (2012/9/07 [Fri])
私自身が共感した言葉を、紹介いたします。
『私がこれまで 思い悩んだことのうち、98%は取り越し苦労だった』
人間、日々悩みは尽きません。皆、誰でも同じです。
しかし、自分の考え方しだいで、苦しみというものは、
かなり軽減されるんです。そんな経験談をお話しさせていただきます。

 以前、仲間とある山に登山したときの話です。
初めての山だったので様子がわからず、私は、
登るのに大変難儀してしまいました。
まわりのハイカーたちは登りなれていて、私よりもずっとペースが速く、
それを思うと自分が嫌になり、下りたくさえなりました。

 上を見ると、かなり高いところに人が小さく見えて、
「あんな所まで登らなくてはならないのか」と思うと、
それだけで心が疲れ果ててしまいました。
一歩一歩がとても重く感じられました。

 そんな時、ふと仲間をみると、ただ黙々と登っていました。
まったく苦しそうにはしていませんでした。
「苦しんでいる私と仲間との違いは、いったい何だろう?」
と考えていると、有ることに気がつきました。

 それは、仲間の視線の方向です!
仲間は先を見ずに、常に足元を見て歩いていたのでした。
つまり、それが苦しまない理由だったんです。どういうことか?!

 私は、余計なことを考え過ぎていたのです。
「あんな所まで登れるだろうか?頂上までまだまだ距離がある!」
「みんな私に比べてペースが速いな」
「私はダメだなあ〜」等々……。

 人間は、余計なことを考え過ぎて、
悩まなくていいことで悩んでしまうことが意外と多いんです!

 不安に思っていたことでも、終わってみれば、
「なんだ、こんなことか」ということがあります!
取り越し苦労のくたびれ儲けの言葉があるように、
考え過ぎると、かえって逆効果なのです!
 
 悩みのほとんどは取り越し苦労で終わる!!



望月泰彦著『「どうせ自分なんか」から「こんな自分でも」へ』太陽出版より

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