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2012年 7月

vol. 3313
「茶道に学ぶ、所作の意義」  (2012/7/31 [Tue])
「流れるような動き」は、所作の美しさを表現する言葉です。
茶の湯の"お手前"、つまり"作法"がまさにそれです。
一つひとつの動きにまったく無駄がなく、しかも、とどこおることがない。
炉にかかっている茶釜からお湯をすくって茶碗を濯ぎ、
ほどよく温まったところで抹茶をいれる。
そこにお湯を注いで茶筅で点て、お客様にさしだす。
すべてがゆるやかな川の流れのように澱みがないのです。

 現在につながる茶の湯を完成したのは千利休ですが、
その世界は「侘び寂び」という言葉で表現されます。
さて、この侘び寂びとはどういうことでしょうか。

 余計なもの、不必要なもの、をとことん捨てていくこと。
私はそんなふうに理解しています。

 捨て切ったときにあらわれるのは、自然な姿、ありのままの姿です。
茶の湯の作法は「捨て切っているから無駄がない、
自然だからとどこおらない」ということではないでしょうか。
美しさの理由もそこにあるのだと思います。

 このことはあらゆる所作についていえることです。
たとえば、大切な人と会うといったとき、
「少しでも素敵に見られたい」という思いになったりします。
そこで、いつもと違って気どった振る舞いをしてみる。
結果はどうでしょう。ぎこちなくなって思わぬ大失敗、
ということになるのではありませんか?

 "素敵に……"という余計な思いがあるから、
自然な所作ができなくなって、動きにつまらない無駄が生まれ、
ギクシャクしてしまうのです。
所作と心が一体だということを、もう一度思い出してください。

 禅に「あるべきものが、あるべきところに、あるべきように、ある」
という言葉があります。それが自然ということです。
いつでもありのままの姿でいる。
それ以外の本当のあなたらしい美しさを輝かせる方法はありません。


 枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載


「たかがお茶、されどお茶」  (2012/7/31 [Tue])
 ひとつ質問をしましょう。
あなたはお茶をいれる意味をについて考えたことがありますか?
 「そんなこと考えたこともない」という答えがほとんどのはず。
お茶なんてポットから急須にお湯を入れて、茶碗に注ぐだけじゃないか、
ということなのでしょう。
なかには、ペットボトルのお茶をレンジで温めて終了、
という簡単派もいそうです。

 茶聖といわれた千利休はこんな言葉を残しています。
「茶の湯とは、ただ湯を沸かし、茶を点てて、
飲むばかりなるものとこそ知れ」……。
ほら、やっぱり!という声が聞こえてきそうですが、
この言葉の意味は深いのです。

 たかが、湯を沸かして飲むだけのお茶なのですが、
これがなかなかできない。されど、お茶なのです。
ただ湯を沸かすといっても、やかんに水を入れてコンロに掛ける、
ということではありません。

 「ただ」の意味は「ひたすら」ということです。
湯を沸かすことに、ただそのことだけに、ひたすら一所懸命になる。
急須にお茶の葉を入れることも、急須から茶碗に注ぐことも、
同じようにひたすら一所懸命です。

 すると、一つひとつに心がこもってきます。
沸かすお湯の量はどうするか、
お茶の葉はどのくらい入れるのがいいか、どのくらいの時間待つか、
茶碗にはどこまで注ぐのか……。
どれひとつとしておざなりにはならない。

 そうして入れたお茶は、飲むとふわっと香りが広がり、
温度もちょうどいい頃合いで、本当においしくいただけるのです。
お茶に込めた心は、飲む人にも伝わります。
「おいしいお茶を召し上がっていただきたい」。
その思いが伝わっていくのです。

 お茶を入れるなんてあまりに日常的な行為ですから、
ついつい心ここにあらずでしてしまうことになりがちです。
だからこそ、「ただ」に徹することが大事。
おいしいお茶を入れてください!



枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3311
「携帯電話に頼りすぎない」  (2012/7/29 [Sun])
 現代人の必携品ランキングというものがあったら、
間違いなく携帯電話がトップにランクされるでしょう。
それほど携帯電話は生活にピッタリ密着しています。
街中でもかけながら歩いている人がやたらに目につきます。
話に夢中になっていて、他人にぶつかってもロクに
「ごめんなさい」といえない人も少なくありませんね。

 しかし、かけている携帯電話のうち、本当に
必要なものはどのくらいあるのでしょうか。おそらく、
30%程度ではないかと思います。70%は、
不要不急な電話で自分の時間を費やしている、ということです。

 しかも雑踏でかければ必然的に大声になります。
衆人環視の中で女性が、「え〜っ、何ぃ!
よく聞こえないんだけどぉ〜!」と絶叫している図は、
はた迷惑だけではなく、さすがに眉を顰めたくなります。
せめて、場所柄をわきまえる。そんなルールを自分の中でつくったら、
人としての「株」の暴落は防げると思うのですが……。

 人と人とのつながりを見誤るということも、
携帯電話の落とし穴だという気がします。
住所録に登録されている人数の多さを自慢げに語る人がいます。
「自分にはこんなにつながっている友人がいる」というわけですが、
そのうちたしかな絆で結ばれている人は何人いるのでしょうか。
暇だからかける相手、かかってきたからただ無駄話をするだけの相手、
ほとんどがそんな人だったら、
人間関係があまりに寂しい、と思いませんか?

 利便性という"功"を否定するつもりはありませんが、
携帯電話には人間関係を希薄にするという"罪"もあります。
そのことを頭に入れて、功を上手く使うのが、
携帯電話とのの付き合い方のポイントですね。

 作家の渡辺淳一さんは
著書『ものの見かた感じかた』(講談社文庫)
のなかでこう言っています。

「一通の手紙には、十本の電話に勝る優しさがある」

コミュニケーションを携帯電話に
頼りすぎる現代社会への警鐘かもしれません。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3310
「もてなしとは、もてなす側も、もてなされる側も、力量が問われるもの」  (2012/7/28 [Sat])
 もてなしの心は、日本の美しい精神風土の
「粋」といっていいかもしれません。
食事やお茶を振る舞うということを超えて、
その時間、その空間のすべてをお客様のために心を尽くす。
それがもてなすということでしょう。

 花を飾る、季節を感じていただくために花を選ぶことも、
もてなしの心のあらわれです。もてなすのが、たとえば、
結婚をまじかに控えて幸せいっぱいの女性の友人だったら、
玄関に桜草をあしらっておくと、粋だと思いますよ。
桜草の花言葉は「長く続く愛情」。「いつまでもお幸せにね」
という思いをそれであらわすのです。

 また、「近頃の彼女、なんだか元気がないなぁ。
何とか励ましてあげたい」。そんな気持ちからもてなす場合は、
紫陽花(元気な女性)を飾ったり、
百日紅(終わりのない友情)がいいですね。
飾る花ひとつにも思いを込める。それも大切なもてなしの心です。

 ただし、"謎解き"はしないのがもてなしのルールです。
玄関で迎えた友人に、「ねえ、これ桜草よ。
言葉は”長く続く愛情"いつまでも幸せな結婚生活を送ってほしくて、
これを飾ったの」といったりするのは無粋というもの。
思いをあえて語らない慎ましさも、もてなす側の心得なのです。

 もてなされる側が、玄関で桜草に目をとめる。
それだけで相手の思いを汲み取って「ありがとう」
とひと言いって微笑む。もてなす側はそれを
「わかってくれてうれしい」という意味を込めた
い会釈で受けとめる。無言のうちに成り立っている
そんなコミュニケーションが、もてなしの真骨頂です。

 こういったやりとりは、おたがいに懐の深さや奥行きを問われる、
つまり、人間としての力量を問われることになりますが、
これが禅でいう「以心伝心」の世界です。言葉で語らなくても、
伝えたいことが心から心に伝わる。
はそうした世界をとても重要なものと考えます。

 親しい友人の気持ちが、言葉で語られたわけではないのに
ーッと心に入ってきた、という経験があるはずです。
また、何も言わなくても、相手が自分の思いを受け止めてくれた、
と感じたことがあるでしょう。「以心伝心」の世界は
手の届かないところにある訳ではありあません。

もてなしの究極の姿は、その以心伝心の世界にある。
そのことを胸にしまって、忘れないでください。
すると、"美しく"もてなせる人に、きっとなれます。



枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載。



vol. 3309
「感謝は、手紙であらわす」  (2012/7/27 [Fri])
 友人や知人から、あるいは、仕事関係の人から、
心づくしのものを送っていいただくことがあるかと思います。
「感謝はタイミング」ですから、直接あって伝えられなくても、
すぐに電話やメールでお礼をいうのは、もう、あなたの常識ですね。
お礼の一言で、相手も「ちゃんと届いたんだな」
ということが確認できます。
いただきものをしたケースでは、その後手紙でお礼を伝えたいもの。

 お返しを送る場合には、
品物を選ぶ時間がかかることも考えられますが、
いただいてすぐに、まずひと言伝えていれば、
そのタイムラグもまったく問題はありません。
そして、お返しには一筆添えるのがいい。
こまやかな心配りを感じさせますし、
丁寧に思いを込めて書かれた文字は、
その人の喜んだ笑顔も届けてくれるのです。
実際、手紙でお礼を伝えてくれた人には、
好意が高まるものです。

 手紙にはおざなりの感謝の言葉を並べるのではなく、
いただいたものについて触れるのが心を伝えるポイント。
たとえば、地方の珍しい名産品をいただいたなら、
「誰といただいたか」「どんなふうに味わったか」
「その地方への印象」などいただいたものについての感想を、
思いのままに率直に綴ることで、相手には、
こちらがどのような雰囲気でいただいたか、
その光景までありありと想像できるのではないでしょうか。

 そうすれば、「本当に喜んでもらえているな。贈ってよかった!」
と感じるはず。そうしたときに、
はじめて「感謝が伝わった」ことになるのです。
季節感のあるものをいただいたときには
「一足先に春の訪れを感じています」
「この夏の酷暑も乗り切れそうな気がします」
「おいしい秋をいただきました」
「お心遣いのあたたかさに触れ、
寒さがやわらいだ思いです」……などのフレーズを
交えるのもいいかもしれませんね。相手の心を掴み、
人間関係を深め、豊かにする。
感謝にはそんな不思議な力があります。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3308
「感謝は、感じたときに、すぐ伝える」  (2012/7/26 [Thu])
 耳にいちばんこことよく響く言葉といったら、「ありがとう」が
その最右翼ではないでしょうか。
「ありがとう」といわれて気分を害する人はいませんし、
ふっと心があったかくもなる。もっと、もっとその価値を知って、
どんどん使ってほしいと思います。

 感謝の言葉には伝え方の原則といったものが
あるような気がします。「感じたときに、
すぐ伝える」というのがそれです。タイミングを逸すると、
せっかくの思いが色褪せてしまう。
「あのぉ、先週はありがとうございました」
「先週って、ああ、あの件ね。今さらお礼だなんて、
そんなお気遣いはむように……」

 そんなふうに“気遣い”が“無用”になってしまうのは、
一にも二にも、タイミングが悪いからです。
その場で感謝の言葉を伝えていたら、相手も、
「お役に立てて何よりです。また、何かありましたら、
いつでもおっしゃってくださいね」といった対応になる。
気遣いをしっかり受け取ってくれるのです。

 よくよく思い返してみると、日本人は案外、
「ありがとう」を言うべきところでいっていない印象があります。
たとえば、海外に行くと、レストランで料理が運ばれてきたら、
ほとんどの人が「Thank you」と一声かけます。
ところが、日本では同じ状況で、何も言わなかったり、
「どうも……」ですませてしまっていたりする。

 頷いている人が多いのではないでしょうか。
もう、「ありがとう」の出し惜しみをやめませんか?
これは美しい人になるための、
すぐれた提案だと私は思っています。(自我自賛ですが……)。

 レストランでサービスを受けたら、
自然に「有り難うございます」といえる人は、
「いい感じだなぁ」と思いませんか?
レストランだけではありません。
エレベーターを降りるとき前を開けてくれたら。
電話を取り次いでくれたら。ホテルをチェックアウトするとき。
タクシーを降りるとき……。
さらりと「ありがとう」が言えるあなたに注がれる視線は、
今までよりずっとやさしくて、あったかいものになるはずです。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載


vol. 3307
「目上の人を尊敬する。礼節を知る」  (2012/7/25 [Wed])
 「衣食足りて礼節を知る」という言葉があります。
中国の古典『管子』に出てくるものですが、
生活にある程度の余裕ができて、はじめて礼儀や
節度をわきまえられるようになる、というのがその意味です。

 景気低迷が長く続いているとはいえ、
現在の日本では、着るものや、食べるものに事欠く、
ということは、まずありません。それどころか、
レストランや家庭、そして食品産業から出る食品ゴミは、
年間約1940万トンにも及ぶとされています。
それほど食べ物を無駄にしている。
飽食の時代はまだ相変わらず、続いているようです。

 そうであるならば、誰もが礼節をわきまえていて
当然ということになるはず。しかし、実情はどうでしょう。
言葉づかいひとつとっても、目上の人に対して礼儀を尽くし、
節度を持って接している、とは言いにくいのではありませんか?

 キリスト教を日本に伝えたフランシスコ・ザビエルは、
日本人の印象をこんなふうに記しています。
「日本人は慎み深く、才能があり、知識欲が旺盛で、
道理にしたがい、すぐれた素質がある。盗みの悪習を憎む」
 国民がみな礼節を重んじる国柄だったことが窺えます。
かつて、礼節は特筆すべき日本人の特質でした。
ところが、そんな国柄は″風前の灯火%uE3809Fという
状態になってしまっているのではないでしょうか。

 家庭や学校、社会の教育力の低下という問題はあるでしょう。
しかし、手をこまねいていては何も変わりません。
まず、あなたから美徳を取り戻す努力をしようではありませんか。

 目上の人には、年輪を重ねた人生の先輩として、
尊敬の念を持って向き合う。そんなに難しいことではないはずです。
それは間違いなく「美しい日本人」の一人になって行く道筋になります。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載


vol. 3306
「どんな立場の人にも敬意を持って話す」  (2012/7/24 [Tue])
 誰にでも社会的な立場や地位があります。
それを認めることは必要ですが、ときとして"勘違い″
が起きることもあるので、注意しなければいけません。

 こんな場合があります。相手が仕事の得意先という場合は、
十分な敬意を払い、接し方や話し方も配慮が行き届いたものになるのに、
下請け業者になると一変。尊大になったり、態度が不遜になったりする。

 立場によって接し方が変わるのです。同じ組織内でも、
上司に対してはへつらい、部下は見下す、
といったことがあるかもしれませんね。
そうした「豹変ぶり」を正当化する論理は、
「立場を認めているからだ」というものでしょう。

 しかし、これは間違っています。
立場を認めるということはそういうことではないでしょう。
それは立場に縛られている、振り回されているだけ。
勘違い以外の何物でもありません。

 「一切衆生、悉有仏性」。この世に存在するあらゆるものには、
仏性という仏様の命が宿っている、という意味ですが、
これが仏教の根本的な考え方です。

 誰もかもが、かけがえのない仏様の命を
いただいて生きているのです。立場や地位といったものは、
瞬時にして変わります。たとえば、大企業の部長だ、
役員だといっても、リストラされてしまえば、あっという間に
″ただの人%uE3809Fになるのではありませんか?

 立場や地位は、所詮、その程度の脆く、
儚い見せかけの姿でしかないのです。
そんなものに縛られるのは愚の骨頂、
寂しい生き方だという気がするのですが、
あなたはそうは思いませんか?

 一方、私たちが仏様の命をいただいている、
ということは、状況がどう変わろうと永遠に変わることはありません。
世の中にはさまざまな役割がありますから、
どんな役割を担っているかは、人それぞれ違います。
しかし、誰もが等しく仏様の命をいただいた存在です。
そのことに気づいたら、勘違いなどしませんね。


枡野俊明著「美しい人をつく所作の基本」より転載



vol. 3305
「美しい文字を書く」  (2012/7/23 [Mon])
 パソコンの普及で、文字を書くことが目に見えて少なくなっています。
自他ともに認める%uE3809D金釘流(自分にしか読めないような悪筆のこと)″
の人には、願ってもない時代到来ということかもしれませんが、
手書きの文字はやはり、パソコン打ちとは別格です。

 とくに相手に自分の気持ちを伝えたいときには、
手書きと印字された文字ではメッセージ力がまったく違う。
感謝でも、謝罪でも、お願いでも、
手書きだからこそ伝わるものがあるのです。

 最近は生産者の写真をパッケージに刷り込んだ農産物に
人気が集まっています。作り手の%uE3809D顔が見える″ことで、
「丹精込めて作った」という気持ちが伝わり消費者の
安心感につながっている、ということなのでしょう。

 手書き文字も同じだという気がしませんか?
文字を通して、読む人にこちらの顔が見える。
だから気持ちも伝わるのだと思います。

 とは言っても、文字を書くのが苦手という人は少なくないはず。
しかし美しい文字は誰にでも書ける、と思っています。
文字のうまい下手はあるでしょう。誰にでもお手本のような
綺麗な字が書けるわけではありません。
 
 たったひとつ、誰にでもできるのは「相手のことを思い、
心をこめて丁寧に書く」ということです。一文字、一文字、
丁寧に記された文字は、たとえ下手であっても、
美しさを感じませんか?真摯な気持ちがそこに見えませんか?
受け取った人には、必ず、何かが伝わるはずです。

 そして、できれば、墨を使うのがいい。
「それこそいちばんに苦手」という声が上がるのは承知しています。
そのうえで、筆ペンでもいいから墨で書くことを奨めたいのです。
私はいろいろな方からたくさんのお手紙をいただきますが、
そのなかに墨で書いたものが混ざっていたら、
真っ先にそれから目を通します。目を惹くもの、
心惹かれるものを感じるからです。

 禅僧の書はとくに「墨跡」と呼ばれています。
それを記したのが師であれば、その方の業績や
人格がその%uE3809D墨%uE3809Fの%uE3809D跡%uE3809Fにあらわれている、
と考えるからです。師の姿そのもの、人柄そのものが、
まるごとあらわれているのが墨跡だといっていいでしょう。

 師が亡くなっても、墨跡の前で手を合わせれば
その存在を感じることができます「いますがごとく」と
いう言葉がありますが、まさしく、そこにいらっしゃるかのように、
私たち禅僧は墨跡と接しています。

 さきほど、手書き文字は顔が見えるという話をしましたが、
墨で書かれた文字はさらにくっきりとその人の存在が、
その人という全体像が見える、という言い方ができるかもしれません。
ここ一番というときに、なんとしても気持ちを伝えたいと思ったら、
墨文字の強いメッセージ力を活かしてください。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載


vol. 3304
「あいさつの力を知る」  (2012/7/22 [Sun])
 人と人との触れ合いも対話も、挨拶から始まります。
もちろん、ビジネス場面でもあいさつは重要。
「あいさつもロクにできない」といわれるのは、
ビジネスパーソン失格の烙印を押されたに等しい、
といっていいと思います。

 あいさつは自分から大きな声でする。
誰もがわかっているようで、じつはこれはあまり励行されていない。
口のなかでもごもご「おはよぉ……」
なんて言っていることが多いものです。
打てば響くという言葉がありますが、
こちらから気持ち良くあいさつをすれば、
相手も気持ち良くなって、言葉も心も響き合うのです。
気持がこもっていないと、響きようがない。

 あいさつは漢字で「挨拶」と書きますが、これはもともと禅語です。
漢字の「挨」も「拶」も<押し合う>ということ。
禅僧がおたがいに押し問答をするなかで、
心のなかを押し図り、相手の悟りの程度を知ろうとする、
というのが本来の意味なのです。

このことからも、あいさつが心に働きかけるものだ
ということがわかりますね。

 あいさつのポイントがもうひとつあります。
それは「形」。気持のいいあいさつの言葉は、
形が整うことで所作として完成されるのです。

 「和顔」というのは、穏やかで優しい表情のことですが、
これがもっとも大事。和顔は言葉にいっそう力を与えます。

 対句となっているのが「愛語」で、
通常は「和顔愛語」の四字熟語として使われます。
穏やかな表情になれば、言葉も自然に相手に対する
親愛を感じさせるものになる。
言葉はパワーを増すわけです。

 形でいえば、「語先語礼」という作法を覚えておくといいでしょう。
つまり、相手をきちんと見てまず「おはようございます」の言葉を述べ、
そのあとに丁寧に頭を下げるのです。


言葉とお辞儀を同時におこなうより、
言葉もはるかによく相手に伝わりますし、
所作全体も綺麗。<ひと味違う>あいさつになります。



枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3303
「過去のことは悔まない。将来のことを不安に思わない」  (2012/7/21 [Sat])
 「あのときこうしていたら、もっと違った
結果になっていたはずなのに!」
「五年後の自分はどうなっているんだろう?
恋人もできないままだったらどうしよう」

ときどきそんな思いが渦巻くことはありませんか?
過去を悔やみ、将来に不安を抱く。悔恨や不安の中身はともかく、
誰にでも経験はあることだと思います。

 しかし、過ぎ去ってしまったことは、変わりようの無い事実です。
今になっていくら悔もうと、取り返しがつかない。
やり直すことはできないのです。また将来どうなるかは、
そのときになってみないと、わかりませんね。
今気を揉んでもまったく意味無いのです。

 禅に「即今、当処、自己」という言葉があります。
即今はたった今。当処は自分がいる場所、
自己は自分自身、ということです。
少し解説すれば「今やらなければ、いつやる時が来る、
今しかないではないか(即今)」「ここでやらなければ、
いったいどこでやる、ここしかないではないか(当処)」
「自分がやらなければ、誰がやる。
自分しかいないではないか(自己)」ということです。

 今、自分が置かれている場所、状況のなかで、
やるべきことを、自分自身で一生懸命にやる。
それが生きていることだ、とこの禅語はいっているのです。

 生きている一瞬一瞬が大切です。過去を振り返ったり、
将来を想像したりしている暇はありません。
やるべきこと、できることは、今、あなたがいるその瞬間、
その場所にしかないのです。

 「過去だ」「将来だ」と<よそ見>をしている間にも、
人生の時間は確実に流れていってしまいます。
今を見つめることを忘れたら、時は空白のまま過ぎていく――
といってもいいでしょう。もったいなくはありませんか?

  「放下着」という禅語は、何もかも捨ててしまえ、ということです。
まさにそれ。過去も将来も放っておけばいいのです。


桝野俊明著 「美しい人を作る所作の基本」より転載

vol. 3302
「古いものを大切にする」  (2012/7/20 [Fri])
 「MOTTAINAI(もったいない)」を地球環境を守る
国際語として提唱したのは、ノーベル平和賞を受賞した
ケニア人女性のワンガリ・マータイさんでした。

言葉の発祥地でありながら、大量消費社会に
どっぷりとつかってしまった現代日本人としては、
大いに耳が痛い、というところではないでしょうか。

 使い捨てが当たり前のようになっている今だからこそ、
古いものを大切にする心がキラリと光ります。
とくに手作りのものは、古くなって独特の風合いが
出てくるものです。気の製品でも、革製品でも、
陶器でも使い込まれて<いい味>を出しているものが少なくありませんね。

 世界に一つとして同じものがない、というのも手作り製品のよさ。
木製のものなら形は同じでも木目が一つひとつ違う、
陶器はそれぞれ微妙に形が違っています。
どれも作った人の温もりが感じられる。
それだけでも大切にする価値は十分にある、と思いませんか?

 古いものを大切にするということは、作った人、
使っていた人の心をずっと受け止めていくことです。
精魂込めて作った人の熱い心、大事に使い続けた人の
慎ましやかな心が、ものを介してあなたに伝えられるのです。
それを受け止めていけば、粗末な扱いなど絶対にできないはずです。

 たとえば、友人の家でお茶をご馳走になったとき、
友人が自分のお茶を注いだカップについて、
こんな話をしたとしたら、どんな印象が残るでしょう。
「このカップ、古めかしいでしょう。
じつは祖母が使っていたものなの。
祖父との何回目かの結婚記念日に買ったとかで、
とっても大事にしていて……。
それを私が使っているなんて、不思議な気がする。」

 直截的な言葉ではないですが、
友人の祖母に対する深い愛が感じられて、
胸が熱くならないでしょうか。
そんな印象が残せる人に、ぜひ、なってください。


 枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載


「華道の心を知り、花を飾る」  (2012/7/19 [Thu])
 部屋のなかに花がある。それだけで生活に変化が訪れます。
花には殺伐とした部屋を心和む空間にしてくれる力がありますね。
花を楽しむという文化は、洋の東西を問わず、
古くからあるものですが、その楽しみ方には、
東西ではっきりした違いがあるのではないでしょうか。

 欧米のフラワーアレンジメントは、色とボリュームを
見せることに重きが置かれています。
鮮やかな色の花々をたくさんあしらい、
そこにゴージャスな世界を展開させる。
形は様々でも、その点はみな共通していると思います。

 日本の生け花は違います。
生け花が表現しているのは「心」です。
自分のために、あるいは、迎えるお客様のために、
精一杯の思いを込めて花を選び、その命に思いを託す。
一言で言ったら、思いをのせて命を生ける。
そんな言い方ができるのではないでしょうか。

 夏の暑い盛りに誰かを迎えるとき、
「少しでも涼しさを感じてもらえたらうれしいな」
という気持ちになりませんか?
そこで、一輪の朝顔を竹の一輪挿しに挿して、
玄関に置いてみる。涼やかな朝顔の青に目をとめたら、
誰でも一瞬暑さを忘れ、人心地がつくものです。
そして、迎え入れてくれた相手の思いを感じてふっと心が和む。

 一人暮らしの休日、出かける予定もなく、
手作り料理で夕食をとる、といったとき、
「なんだかちょっと寂しいかも……」という気分に襲われる、
ということがあるかもしれません。しかし、
料理が並んだテーブルにいちばん好きな花を飾ってみたら、
気分はずっと違ったものになると思うのです。

 「そういえば、北海道を旅した時に見たスズランは
きれいだったなぁ」など、楽しい思い出がめぐってきて、
少し元気になったりする。

 ときに花に思いを託したり、
花と心を通わせたりする生活、
けっこう素敵じゃないですか。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3300
「TPOをわきまえる」  (2012/7/18 [Wed])
 身だしなみを切っても切れないのがTPO(時/場所/場合)です。
どれほど隙なく身だしなみを整えても、それが、
TPOをわきまえないものだったら、周囲から顰蹙を買うのは必至。
よく心技体といわれますが、身だしなみでいえば、
体は姿勢と所作、技は装い、
そして、心に当たるのがわきまえだと思います。

 そのわきまえが<危うく>なりがちなのが、
最近では結婚披露宴でしょう。参列者のとっても晴れ舞台。
おしゃれにも気合が入るのはわかるのですが、
舞台の主役は新郎新婦、あなたはわき役に徹して
こそ主役が光るということを、決して忘れてはいけません。

 豪華さ、派手さが新婦をしのがないこと。それが鉄則です。
新婦が白のウエディングや白無垢を着ることがわかっていたら、
白のドレスを控えるのがわきまえというもの。
新婦よりも目立つ白のパーティドレスで会場の注目を
集めたりしたら、空気が凍りつくことにもなりかねませんね。

 披露宴は絶好の<婚活のチャンス>という思いがあるにしても、
わきまえの範囲を外したのでは、自己アピールとしてもマイナス。
仏教に「利他」という言葉があります。他を利する、
つまり、自分のことより他人を思うこと。
これがわきまえの基本でしょう。その利他を実践している姿は
人間としての美しさがそのままあらわれている、といっていい。
これ以上のアピールはないですね。

 葬儀もわきまえが不可欠の場面です。
訃報は突然届くものだから、とるものもとりあえず
駆けつけたことを示す意味でも、
通夜には喪服を着ていかないほうがいい、
ということがいわれます。しかし、今亡くなったその日に
通夜がおこなわれることは、ほとんどなくなっています。
日を置いて催される通夜であれば、
やはり、喪服で身だしなみを整えていくのがわきまえだと思います。

 ちなみに、香典袋の文字は薄墨で書くのが正式ですが、
通常、その理由とされているのが、墨をすっている間にも故人を
悼む涙がこぼれて、墨を薄めてしまった、というもの。
これは間違いです。墨を十分する時間もなく慌てて書いたため、
薄墨になってしまった、というのが正しい理由です。

 これもわきまえを問われますから、
葬儀でのあいさつにも触れておきましょう。
「ご愁傷さまでございました」が定番ですが、
TPOをわきまえていると、違った表現もできそうです。
最愛の人を失って遺族が悲嘆にくれているという場合には、
「お力落としのこことお悔やみ申し上げます」
といういい方がいいかもしれませんし、遺族が長期間、
故人の介護で大変な思いをしていた、というケースなら、
「十分お世話なさいましたね」という言葉が、
いちばん相手の心を癒やすということもあります。
わきまえは状況を正しく見抜く<眼力>も必要なのです。

 冠婚葬祭をはじめ、わきまえが問われる場面には
いつ立たされるかわかりません。そのとき迷ったり、
戸惑うことがあったら、根本である「利他」の心を
思い出してください。それに従っていれば大丈夫!



枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3299
「日本人が本来持っている、色の感性見直す」  (2012/7/17 [Tue])
 身だしなみを整えるうえで「色」も重要です。
 肌の色と洋服や和服の色は補色関係にあるのではないでしょうか。
色の白い人は赤や紺などを着ると映えますし、
黒い人は白とか淡色系を着ると引き立つ、
といったことがたしかにあります。ふだんから色に敏感になって、
「この色は合うかな?」「これはちょっと顔がくすんじゃうかな?」
という感じでチェックし、色彩感覚を身につけていくといいですね。

 感覚が磨かれると、自分に合う色もわかってきます。
ひとつ基調になる色が見つかれば、
服装や小物もそろえやすくなる。その色とのコーディネイトを
考えて選ぶようになるから、
突拍子もない色のものが紛れ込むこともないし、
上下の組み合わせを変えるなど着回しも効率的にできるようになります。

 禅では衣の色が位をあらわします。もっとも高位にあるのが紫。
それも遠目には黒に見えるような濃い紫です。
紫の染料は希少、貴重なものだったため、
最高位の禅僧にのみ、それを身につけることが許されたのです。
紫に次ぐのが、赤味がかかった紫、そして黄色、
緋色という順で位分けがされています。

 これは私見ですが、色はその地域の天候と深く
かかわっている気がします。たとえば、カラッと晴れ、
抜けるような青空が広がる日が多い地中海の地域では、
原色が映えますし、人々にも好まれます。
一方、ヨーロッパも北になると曇天の日が多く、
色も自然に黒っぽいものが基調になっているようです。

 実際、イタリアやギリシャとデンマーク、スウェーデンとでは、
街の色味も人々が身につけている衣類もまったく対照的。
アメリカでもニューヨーク、ボストンなどの東部とロサンゼルス、
サンフランシスコなどの西海岸を比べると、
同じようにはっきりした色分けが見られます。

 日本は四季があるうえに天候も多彩です。
四季を「青春」「朱(赤)夏」「白秋」「幻(黒)冬」と
色を関連づけて呼ぶのは、中国の五行説から来たもののようですが、
日本人は、本来、色に対してきわめて豊かで
こまやかな感性を持っている、ということを胸に
置いておくといいのではないでしょうか。
そんなところから、色を選ぶとき自然に季節感を思ったり、
地域の天候を考えたりするようになったら、
人間としてまたひとつ、素敵になっていくのだと思います。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載」

vol. 3298
「清潔感とは」  (2012/7/16 [Mon])
 お寺や神社にお参りするとき、必ず行う所作が「お清め」です。
境内にある手水舎の水で手を洗い、口を濯ぎますが、これは、
神聖な場所、つまり、ご本尊様が安置されているお寺の本堂、
ご神体がまつられている本殿への参拝は、
お清めによって心身ともに清らかな状態になって
おこなわなければいけない、という考え方から生まれた作法。
口と手、すなわち体を清めることが、心を清めることにもなる、
ということが、この作法からもわかります。

 身だしなみをこざっぱり清潔にしておくことが大事だということも、
体と心がつながっているという、この考え方を知れば
よく理解できるのではないでしょうか。
清潔感にあふれる人は、心も清々しいという印象を与えます。

 高価そうな洋服を着ていても、袖口の汚れが
そのままになっていたら、高感度はガクンと下がる。
一方安いものでも、汚れひとつなく、
今にも洗剤のにおいが漂ってきそうなシャツだったら、
高感度は急上昇です。

「たしかに着ているものは高価みたいだけれど、
細かい気配りができない人なんだ。
おそらく、部屋なんかも片付いていないんだろうな」
前者がそんなふうに、暮らしぶりについてまで余計な
憶測をされてしまうのに対して、後者はこう受け取られます。

「さわやかだなぁ。ここまで気が回る人ならきっと、
他人に対しても細やかな配慮ができるに決まっている」
この違い、大きいと思いませんか?

 身だしなみの美しさの土台になるのは清潔感です。
不安定な土台の上に建てたの家が、
いつ崩れてもおかしくないように、清潔感という土台が
しっかりしていないと、いくら飾り立てても、本物の美しさ、
清々しさなど感じさせることはできません。
まず、土台固めに着手です。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載
 

vol. 3297
「身につけるものは、長く大切に着られるものを選ぶ」  (2012/7/15 [Sun])
 身につけるものに関しては、二通りの考え方があると思います。
ひとつは、数をたくさんそろえて、
できるだけいつも違うファッションにする。
もうひとつは、いいものを買って、長く大切に着る。
質より量か、量より質か、です。

 流行はめまぐるしく変わります。
それを追えば必然的に数をたくさん持つことになるでしょう。
周囲から「いつも最先端でかっこいい」
という声が聞こえるかもしれません。
しかし、いったん流行が廃れば、
それに合わせてズラリとそろえた洋服にも袖を通さなくなる。
身につけるもので主張しているのは<流行>だからです。

 一方、いいものを買う場合には、値段も張りますから、
じっくりと吟味することになります。自分に似合うか、
どんな自分を演出できるか、すぐに飽きたりはしないか……。
さまざまな要素を考え合せたうえで、買う決断を下すことになる。
当然、大切にもするし、一シーズン、
二シーズンできなくなるということもないでしょう。

 この場合、主張しているのは<流行>ではなく、
<自分自身>です。自分を主張するにふさわしいもの
として選ばれた洋服は、五年、一○年経っても着続けられる。
流行とは違って、自分が廃れることはないからです。

 価値観の問題ですから、どちらが良くて、どちらが悪い、
ということではありません。
ただ、私は、情報収集してそれに従えば追える
<流行>を身につけるより、自分自身と向き合って、
きちんと考えて洋服を選べる人のほうが、思慮深いし、
洋服への敬意もあって、結果的に輝けると思います。


 枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3296
「着ているものは、あなたの心をあらわしている」  (2012/7/14 [Sat])
 「服装は生き方である」そう言ったのは
フランスのファッションデザイナー、イヴ・サンローランだったでしょうか。
事実、自分が選んで着ているものは、
生きるポリシーを反映しています。と同時に、
服装はそのときどきの自分の心をあらわすものである、
と思うのです。

 たとえば、ビジネスの場面で、
「今日は得意先の役員に初めて挨拶する」というときには、
失礼のないように、好感をもって受け止めてもらえるように、
こちらのやる気が伝わるように……といったことを考えるはず。
それが服装選びに反映されるのです。
デザインはフォーマルに近いもの、
色や柄は派手にならずに控えめに、
バックはハンドバックよりビジネスバックで……と
いうことになるわけです。季節はクールビズ真っ盛りでも、
ラフで涼しげな服装は選びませんね。
男性もこのときばかりは、普段は締めないネクタイを
きちっと締めていくことになるでしょう。

 まさに、着ているものに心があらわれているのです。
心惹かれる人との初デートに臨むときは
シャープで尖ったデザインのものよりは、
あたたかくてやわらかい雰囲気のするものを選ぶ、
ということはありませんか?そんなときの自分の心をのぞけば、
やさしさや素直さを伝えたい、という思いが、きっとあるはずです。

 立場を変えて考えれば、相手はあなたの着ているもので、
その心を見てとるということです。最近はあえてラフにしたり、
ルーズにしたりするのが、おしゃれのトレンドに
なっているようなところがあります。
しかし、だらしない身だしなみをしていたら、
たとえ、心には相手に対する誠意があふれていても、
それがうまく伝わらないのではないでしょうか。

 身だしなみでは、<心>と<着るもの>が調和しているかどうか、
をチェックしてみるといいですね。
両者がピタリと合ったとき、そこにはいちばん自分らしい、
そのときのあなたがいるに違いありません。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3295
「眠る前に心配事はしない」  (2012/7/13 [Fri])
 みなさんはこんなふうに思ったことがありますか?
「どうして夜になると考え事をしてしまうんだろう。
それも、不安や心配なことばかりが頭に浮かんでくる。不思議だな」

たしかに不思議です。仕事の問題でも、人間関係でも、
また、恋愛についてでも、あれこれ心配になったり、
不安を感じたり、思い悩んだりするのは、
決まって夜一人になったとき。

では、考えた結果、どうですか?
これもだいたい同じプロセスをたどって、同じところに行き着きます。
あでもない、こうでもない、と思いを巡らすうちに、
心配や悩みはどんどん深まっていく。
不安が不安を呼び、悩みが悩みを増幅させて、
悶々として眠れなくなり、絶望的にな気分になる。
そうではありませんか?

環境は、私たちの思いや行動に少なからず影響を及ぼします。
夜の闇のなかにたった一人でいる。
その環境が心理に働きかけて、
考えを悲観的な方向に向けるのです。
思いが負のスパイラルに陥る、といっていいかもしれません。

その証拠に、眠れない夜が明けて朝になると、
絶望的に思えたことが、たいがい
「なぁんだ、たいしたことじゃない」ということになる。
その朝の感じ方が、心配事や悩みの正確なレベルなのです。
「下手の考え休むに似たり」という言葉がありますが、
それに倣えば「夜の考えやめるにしかず」です。
そのためには心配事の本質、不安の正体を知っておくのがいいですね。

 禅の始祖である達磨大師とその後継者となった
二祖・慧可大師の間に、次のようなやり取りがありました。
修業を重ねる中で、慧可大師はどうしても不安から
逃れられないことに悩みます。悩みぬいた挙げ句、
どうにもならなくなり、慧可大師は師僧に相談するのです。

「いくら修行をしても、不安でたまりません。
なんとかこの不安を取り除いていただけないでしょうか」
話を聞いた達磨大師はこともなげにこう言います。

「そうか、わかった。すぐにも不安を取り除いて、
おまえを安心させてやろう。だから、
その不安とやらをここに持っておいで」
慧可大師は不安を探し求めますが、
いくら探しても不安は見つかりません。
そこで、率直にそのことを師に告げます。

「不安を探したのですが、どこにも見つかりません」
すると達磨大師はこういうのです。
「さぁ、おまえの不安は取り除けた。もう、安心できただろう」
それで慧可大師は得心するのですが、
さて、何がわかったでしょうか。

不安には実体などないということに慧可大師は気づいたのです。
不安は自分の心が勝手につくりだすているものにすぎない。
どんなに重くのしかかっているように思えても、
心をちょっと変えたら消えてなくなってしまう。
それが心配事、不安の正体です。

 夜、不安に心を占領されそうになったら、
このエピソードを思い出してください。
探したって見つからないんだから、
うっちゃっておこう。そう思えますよ、きっと!


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3294
「同じ時間に眠る」  (2012/7/12 [Thu])
 仕事についてる人も学校に通っている人も、
朝起きる時間はほぼ決まっています。
日のよって起きる時間がてんでバラバラということはありませんね。
その起床時間から一日のリズムは始まります。

 いい状態で朝を迎え、リズムをうまく刻んでいけば、
自然に体も心も整った一日が過ごせます。
ところが、ひどい夜更かしをして、眠る時間が
普段の半分しか取れなかったとしたらどうでしょうか。
起きる時間は同じでも、朝のその時点ですでに
リズムの乱れが生じています。「ああ、頭が重い」
「体がだるくて仕方がない」「なんだか、
今日は会社に行く気がしないなぁ」……。
めざめた早々、そんな感じがするのはまさに
リズムが乱れている証拠。体も心も整っていないことを
物語っています。そこから始まる一日が鬱々としたものになるのは、
言うまでもないことでしょう。

 眠る時間によって、どんな朝を迎えるかが決まっています。
禅の修行では起床から就寝まで、
一日の行動が細かく分単位で決められています。
総持寺の雲水たちの起床は午前四時、
就寝は午後九時、これは厳格に守られています。
心身ともに整った状態で昼間の修行に打ち込むためには、
眠る時間、そして起きる時間がつねに
一定であることがきわめて大切だからです。

 みなさんは眠る時間に、案外、無頓着なのではありませんか?
起床時間と違って、こちらはその日のなりゆきしだい、
ということになっていないでしょうか。仕事や人とのつきあいで
帰宅時間が遅くなり、眠る時間がずれ込んでしまうのは
仕方がないとしても、できるかぎり、
同じ時間に眠るように心がけましょう。夜更かしをしても、
そのあとまとめて眠れば大丈夫という人がいますが、
寝だめはききません。睡眠は帳尻合わせができないのです。
また、眠るときに電気をつけっぱなしにしたり、テレビをつけたまま、
音楽をかけたままにする人がいるようですが、光りも音も熟睡を妨げます。

 日の出の明るさとともに起き、日が沈んで闇が立ちこめたら、
体を休め、静けさのなかで眠りに就く、
というのが本来の自然な人間の姿です。
お天道様(太陽)の活動と歩調を合わせた生活リズムが、
私たちの命にとって一番望ましいということでしょう。
いい眠りを支えるのが静けさ、そして暗さです。

とくにエネルギーが世界的に課題になっているこの時代、
一人ひとりがエネルギーの消費を抑えるエコライフは、
地球にやさしい生き方。やさしさはどこかで美しさに通じています。



枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3293
「今日のことは眠る3時間前までにすませる」  (2012/7/11 [Wed])
 どんなことに対してもきちんと「けじめ」をつける。それも美しい生き方には必須の条件だと思います。どうにもならないことにいつまでも囚われたりしていると、今本当に自分がやるべきことを見失います。信念や決断力がちっとも感じられない、ウジウジした生き方になってしまう、といっていいでしょう。

 自分の玄関を一歩入ったら、仕事のことは一切考えないし、
家族にも話さない、というスタイルを貫いている人がいます。
けじめのつけ方の上手い人の好例ですが、
コツは自分のなかで境界線を設けていることでしょう。
つまり、自宅の玄関を境界線にして、その内と外で
はっきり気持ちを切り替えているのです。
けじめをつけて切り替えるから、やるべきことが見え、
そこに全力を投じていけるわけです。

 これは空間的な境界線ですが、時間的にも境界線を
決めておくのがいいですね。眠る3時間前を境界線にして、
そこでその日は終わらせてしまう。
仕事のミスや人間関係のトラブルがあったとしても、
いったんエンドマークを打つのです。
逆に気分が高揚することやうれしいことがあったとしても、
余韻を引きずらないようにします。

 その日を終わらせるけじめの言葉は
「今日のいい一日だった!」です。ミスやトラブルがあった日を
いい日だなんて言えない、とあなたは考えるはずです。
しかし、それは違います。「日日是好日」という禅語に学んでください。

 毎日、毎日、すべてがうまくいった幸せ感で満たされると
いうことなどない。つらい目に遭う日もあれば、
寂しい思いをする日もあるでしょう。
しかし、これも「好日」だと禅語は教えます。
つらさや寂しさも、他の誰でもない、
その日のあなただけができた経験。
そして、その後二度と味わえないかもしれない経験です。
それはいつか必ず、生きる糧になる。
ですから、どんな一日もあなたにとってかけがえのないもの、
好日と受け取るべきものなのです。さあ、そろそろ就寝三時間前、
一日のけじめ絵を、たった今胸に刻んだ言葉でつけてください。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」

vol. 3972
「朝、一日一回、腹から声を出す」  (2012/7/10 [Tue])
 その日の体調、体のコンディションを知ることは、
<いい一日>を送るうえで欠かせない要素です。
それには朝、腹式呼吸をしてお腹から大きな声を出してみることです。
私は朝、本堂内の隅々まで行き渡るようなつもりでお経をあげますが、
第一声で、もうその日のコンディションがわかります。

 体調がいいときは自分でも気持ちがいいくらい、
力強くお腹の底から響いてくる声が出ます。
堂内の空気がふるえるのを感じるほどです。
ところが、体調がいまひとつだったり、良くなかったりすると、声がかすれる。

 声で体調が確認できると、その日の行動の指針もはっきりします。
「体調万全。今日はオーバーワークでも大丈夫だ」
「これはちょっと気をつけないといけないぞ。
無理をして寝込むようなことになったら大変」といった具合ですね。
声が体調管理の有効なバロメーターになっているのです。

 これは誰にでもいえることですから、朝、
一回大きな声を出すようにしてみたらいかがでしょう。
何か好きな言葉、誰にでも口にすると元気になる言葉や
心に残っているフレーズがあるはずです。
インターネットで「名言」なんてサイトを見ると、
相田みつをさんの「つまづいたっていいじゃないか人間だもの」
「しあわせはいつも自分の心がきめる」とか、
金子もみすゞさんの「みんなちがって、みんないい」
とか候補がたくさん見つかると思います。
ただ、「おはよう!」「よぉ〜し!」と言うだけでもいいのです。

 体調がわかるだけでなく、お腹から大きな声を出すと、
気持ちもスッキリする。明日から<一日一声>実践しましょう。



枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3971
「朝起きたら、窓を開ける」  (2012/7/09 [Mon])
 それまでの朝がガラリと変わる簡単な方法があります。
起きたら、窓をいっぱいに開けるのです。
部屋には前日から引きずってきた空気が澱んでいます。
それをすっかり入れ替えて、朝の新鮮な空気を思い切り吸い込み、
部屋と一緒に心も体もリフレッシュしましょう。
ベランダに出てゆっくり深呼吸を三回、四回。
体中の空気が新旧交代すると、心も新たになります。

 私の起床時間は五時。最初にするのは本堂をはじめ、
客殿や庫裏などの雨戸を開けて、朝の空気を吸い込むことです。
海外や地方に出ているときは別ですが、
寺にいるかぎり、毎日がその繰り返しです。

 しかし、自然は日々移り変わっています。
一日として同じということはありません。
その移ろいが全身で感じられます。
 
「春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪冴えて、涼しかりけり」
道元禅師が詠まれた歌です。
それぞれ天地いっぱいにそこにあらわれている四季は
どれも違った姿をしていますが、
比べようもなく皆みごとなまでに清々しい、ということでしょう。
日本ほど四季折々の美しさを実感できる国はありません。
朝はそれを感じ取る最高の時間です。

 修行中の雲水は「暁天座禅」といって、
まだ朝が明けきらないうちから座禅をします。
そこから修行の一日が始まるのです。
深く息を吸い込み、静かに自然の移ろいを感じながら、
心と体を整えてその後の修行に臨むためです。

 朝をどう過ごすかで、その日一日はまったく違ったものになります。
まさか、「カーテンも開けない日がけっこうある」
なんていうことはないと思いますが、
そんなずぼら派の一日がどんなものになるかは、
容易に想像のつくところ。心も体もゆるみきった
無為な時間が過ぎていくのではありませんか?
朝を大切にする人、そして、人生を一生懸命、
大切に生きる人なのです。


枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3970
「朝、歩く」  (2012/7/08 [Sun])
 五分間の朝の掃除とともに、習慣にしていただきたいのが、歩くこと。
現代人の日常生活からは、歩く機会が極端に減っています。
自宅近くのバス停からバスと電車を乗り継いで会社に到着。
駅にはエスカレーターがあるから、
ここまでの行程でほとんど歩くはありません。

 会社では一日中デスクワークをこなし、
退社後は逆ルートで自宅に戻る。営業関係など、
中には、<足で稼ぐ>職種もあると思いますが、
歩かない毎日を送っている人も多いではないでしょうか。

 歩いて足腰の筋肉をほどよく使うことは健康の要です。
整った美しい姿勢も、土台である足腰が
弱ってしまってはキープできません。
「よし、じゃあ、ウォーキングにトライするぞ。
まずはウエアとシューズをそろえないと……」
などと意気込まないで、朝、気ままに歩いてみる
という感じで散歩を始めませんか?

 早朝は一日のなかでいちばん透明感のある時間帯です。
そんななかで、眠りからさめたばかりの
体を動かすのはとても気持ちがいい。
気づきや発見があるのも歩く楽しさのひとつです。

 「家からこんなに近いところに公園があったんだ。
小さくて気づかなかったけど、花がいっぱい植わっている。
季節ごとにどんな花が咲いているのか見届けてやろう。
 「あっ、朝早くからオープンしている手作りのパン屋さんがある。
しらなかったなぁ。今度一度、買ってみよう」

 気づきや発見は、人生の新しい出会いです。
「逢花打花、逢月打月(花に逢えば花をたし、
月に逢えば月にたす)」という禅語があります。
花に逢ったらその花を味わい、
月に逢ったらその月をしみじみと感じるのがいい、
というのがその意味。そのときどきの出逢いを
そのまま受け入れて楽しんでしまおう、ということでしょう。
そんな気持ちで歩いていると、きっと心が豊かになります。

枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3970
「朝起きてすぐにテレビをつけない」  (2012/7/07 [Sat])
 朝目覚めて布団やベットから起きたら、最初に何をしますか?
さて、あなたはどう答えるでしょうか。
もし、統計をとったら「真っ先にテレビをつける」という回答が、
かなりのパーセンテージを占めるのではないか、
と私は思ってます。


 ほとんどの人が、番組を観るというより、
時計代わりにテレビをつけているのではないでしょうか。
画面の隅に表示されている時間をちらちら確認して、
「そろそろ食事をすませなきゃ」「着替えをいそがなくちゃ」
「あと二分ででないといつものバスに乗り遅れる」……。


 その結果、食事も着替えも、何もかもが<ながら>になってしまう。
テレビを観ながらの食事では、間断なく送られてくる切れ切れの
情報を<つまみ食い>することになり、ただ機械的に
料理を口に運ぶだけの、心ここにあらずの味気ない朝食です。


 朝に時間はテレビをオフにしましょう。そして、食事も、着替えも、
準備も朝やるべきことのすべてを丁寧に、心を込めてやって下さい。
すでに、早起きが習慣になっていて、時間に余裕があったら、
簡単な体操やエクササイズで身体を動かしたらどうでしょう。


 一日の活動の絶好のウォームアップになりますし、
いい汗をシャワーで流せば、仕事に向けた完璧な
臨戦態勢が整います。
どうしても見たい番組がある人は、それらすべてをすませてから、
と決めて行動すれば、朝のリズムが乱れることはありません。


 実際、テレビを消して、一連の朝の行動をしてみると、
テレビをつけたまましているときより、
格段に時間が短縮されることに氣付くはずです。


 朝の時間がひときわ忙しく感じられるのは、
ついテレビに意識がとられ、一つひとつの動き、所作が無駄の多い、
緩慢なものになっているから。


 朝は、ダラダラではなく、キビキビが美しい……ですね。


桝野俊明著「美しい人を作る所作の基本」より転載

 

vol. 3969
「朝、五分でいいので、掃除をする」  (2012/7/06 [Fri])
 「一掃除ニ信心」読んで字のごとし、まず、最初にやるべきことは
掃除である、信心はそれが済んでからのことだ、お言う意味。
これは禅の思想を象徴する考え方です。


仏様に手を合わせたり、座禅をしたり、お経をあげたりすることよりも、
掃除をすることがいちばんだなんて、不思議な感じがするかもしれません。


 しかし、掃除をすることはじつは深い意味を持っているのです。
みなさんも掃除をしたあと、綺麗になった部屋の中に立って、
「あぁ、気持ちいい」と感じたことがあるでしょう。


 塵や埃がすっかり拭われて、身辺が整うことは、心を整えることに
直結しています。心にも塵や埃がつもります。
その代表的なものが悩みや迷い、不安や欲望といったもの。


 一言で言えば煩悩という事になりますが、
美しい生き方を邪魔するのがこの煩悩なのです。


 一心に掃除をしていると、心の塵や埃が剥がれていきます。
やり終えた時の爽快感やさっぱりした気分は、
塵や埃が消え去ったからこそ、もたらされるものです。


 朝にもっともふさわしいのが、そんな整った心の状態。
そこで、朝、五分でいいので掃除をすることを奨めたいのです。
その日ごとに掃除をする場所を決めて、
今日はキッチンの流し台、明日はレンジ、明後日はトイレ、
その次は玄関……というふうにすれば、
五分でも十分綺麗にすることができますね。


 掃除をしている間は、拭くこと、磨くこと、
掃き清めることに専念して、何も考えないことです。
一週間か十日単位で、主だった箇所の掃除がおわる
ローテーションを組めば、一巡りすると部屋全体が綺麗になります。


 この五分掃除は続けることが大事jです。
部屋をきれいに保つことは、いつも整った心でいること。
怠ったら、塵や埃はどこからともなく舞い降りてきます。
ぜひ、綺麗な習慣を身につけましょう。


桝野俊明著「美しい人を作る所作の基本」より転載

「早起きをして、元気良く一日を始める」  (2012/7/05 [Thu])
 一日の始まりである朝をどんな形で迎えるか。
これは重要なテーマになります。朝寝坊をした
朝のことを思い出してみてください。あわてて布団や
ベットから飛び起き、寝ぼけまなこで洗顔も歯磨きも、
身支度もそこそこに、朝食もとらず、家から飛び出す、
というドタバタ劇が展開するのではありませんか?

心に余裕がないから、途中で忘れものに気づいて
引き返さなければいけないかもしれないし、
会社にもギリギリに滑り込むことになる。
準備が整わないまま仕事に向かっても、
能率が上がるわけもありません。早朝に会議でもあったら、
ロクな発言もできず、みんなのなかにも入れません。

すべての現因は朝寝坊にあります。
そこに悪い縁が生じ、結果が悪く出てしまう。
悪循環の中で一日が過ぎていくことになるわけです。
そして、一日の終わりに嘆きが口をついて出る。
「あぁ、今日は運の悪い一日だったなぁ。」

 その現因(種)を変える。
つまり、朝早起きをするとそこにはよい縁が生じます。
出かけるまでの時間に余裕があるから、
身支度もゆっくりできるし、朝食もしっかりとれます。
朝食の準備のために動くことで体も目覚め、
脳も活発に働き始めるでしょう。

 食後のお茶やコーヒーを楽しみながら、
スッキリした頭で新聞に目を通せば、
新しい情報が見つかるかもしれない。
また、仕事のアイディアが浮かぶことだってある。
通勤電車の中では、会議に備えて発言しようと
思う内容を再確認したり、論理の展開の仕方を
チェックしたりすることもできるのです。

 朝を、「しまった、どうしよう」から始めるのと、
「よし、今日も一日頑張ろう」から始めるのとでは、
結果の違いはおのずから明らか。
仏教でいう「良因良果、悪因悪果」の
理のなかで私たちは生きています。


その日の自分を整える、
一日を美しく生きるためのカギは、朝が握っています。

枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

vol. 3967
「お腹いっぱい食べない」  (2012/7/02 [Mon])
禅では行住坐臥すべてが修行と考えます。
食べることももちろんそう。
「食べることが修行だなんて!
食事ぐらい自由にお腹いっぱいたべたい」
今のあなたは正直そう思っているかもしれません。

 ここで禅の修行中の食事についてお話しましょう。
食事をする器は応量器(鉄鉢)と呼ばれる、
組子になった木製のものですが、
朝食(小食)はその中の一番大きい器におかゆが一杯。
じつは、炊いたおかゆには<濃度差>があります。
修業を始めたばかりの雲水はほとんど飯粒が
見当たらないような薄い上澄みをいただくのが習い。
より厳しく己を律せよ、というわけでしょうか。

 おかずにあたるものは、ゴマと塩を一対一の割合で
炒ったゴマ塩と香菜少々、いわゆるお新香です。
「再進」といっておかわりもできますが、
それも半分ほどいただけるだけです。

 昼食は点心。麦を混ぜたごはんと香菜、
そして味噌汁がそのすべてです。
 
夕食は(薬石)になると昼の点心に「別菜」がつきます。
おかずらしきものといったら唯一この別菜。
大根を煮たものとか、二つ割にしたがんもどきとか、
いずれにしても<質素>を超えるものではありません。

 当然、空腹感に襲われます。最初の三〜四日間くらいは
ひもじさを感じる余裕もありませんが、
それを超えるとズシンとこたえてくる。一ヶ月も経たないうちに、
全員体重は一〇キロは減ります。
太っている人だと二〇キロもやせたりする。
もはや別人です。ところが不思議なもので、
三カ月もすると胃が縮んでくるのか、
同じ食事でも空腹感がすこしづつなくなる。
体重もしだいにだいぶ戻ってきます。
食べたものの栄養を消化器が効率よく消化
・吸収してくれるようになるからでしょう。

 変化はそれだけではありません。
座禅をしていても頭が冴え渡ってくるのです。
食事をすると消化のために消化器に血液がどんどん流れ、
頭にいく血液量が少なくなるそうです。
食事をたっぷりとったあと眠くなるのは、
血液不足で脳の働きがちょっとお休み
しているからだといわれていますね。
最小限の食事だと消化器への負担も軽く、
そのぶん脳に血液がどんどん流れて、

頭が冴えてくるというわけです。

 昔から<腹八分目>といわれますが、
それが健康にも頭にもいいことが、
経験則でわかっていたからこそ、この格言は生まれ、
今日まで残っているのだと思います。
八分目どころではなく、お腹は半分も満たされない
修行中の食事ですが、格言に真理があることが実感されます。

 私の経験からいえば、<頭が冴えて><肌が美しくなる>
のが禅の食事です。あなたの食生活を立て直す
ヒントになると思うのですが、いかがでしょうか。



枡野俊明著「美しい人をつくる所作の基本」より転載

 


vol. 3946
「ゴミは正しく捨てる」  (2012/7/01 [Sun])
 現在は、どの都道府県でもゴミの分別がおこなわれ、
捨て方にもルールが設けられています。
しかし、ルールがあれば、必ず、それを逸脱する人がいるのも、
悲しいかな、否定しがたい現実でしょう。

 うっかり捨てるのを忘れた生ゴミがたまってしまった。
次の収集日までこの生ごみと一緒に暮らすなんて、
とてもじゃないがかなわない。
「どこかよその収集所なら、誰が捨てたかわからないし、
こっそり捨ててしまおうか。
まあ、一人くらいルール違反がいたって大したことじゃない」。

 こうしてゴミはルールなどおかまいなしに捨てられることになります。
誰にもとがめられなければ、企みは成功したことになる。
本当にそうでしょうか。

 「把手供行」(はしゅきょうこう)という禅語があります。
共に手をとって歩いていく、という意味ですが、
さて、誰と手をとって歩くのでしょうか。
四国八十八カ所をめぐるお編路さんにその答えがあります。

 お遍路さんがかぶっている笠には「同行二人」と書かれています。
一人でお遍路をしていても、歩いているのは二人なのです。
一人は自分、そしてもう一人は弘法大師・空海さんです。
お遍路さんが行く道には、必ず、空海さんが寄り添ってくれている。
ですから、つらくても、苦しくても、歩き切ることができるというわけです。

 私たちは一人で生きているのではありません。
いつだって心のなかの仏さまと手を取りあって人生を歩いている。
心のなかの仏様とは、自分が持っている正しい心、
美しい心といってもいいでしょう。

 さぁ、そんな自分がこっそりゴミなど捨てられますか?
仏様の目の前でゴミを放り出して、平気でいられるでしょうか。
誰に咎められなくても、仏様は見ています。そこに気づいてください。
いつも心のなかの仏様を感じていたら、何をすべきか、
してはいけないか、はっきり見えてきますね。


枡野俊明著 「美しい人をつくる所作の基本」より転載

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