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2013年10月

vol. 4924
「そばにいるだけでも絆は生まれる」  (2013/10/31 [Thu])
 人は、何かを話したときに、共感してくれる相手がいると、
満足感を感じて、心にプラスのエネルギーが増えていきます。


 最近つき合っていた彼女と結婚した男性に訊いた話です。
彼が結婚を決めた理由は、それまで一緒に暮らしていた
父親と母親が、田舎暮らしをしたいと言って、
空気のきれいな地方に引っ越してしまったことです。


生まれて初めて一人暮らしをした彼は、そのあと、
インフルエンザにかかって、寝込んでしまいました。
そのとき、「このまま一人で死んだらどうしようと不安になって、
誰かそばにいてほしい」と思ったのが、彼が結婚を決めた理由です。


皮肉な人は、「独身だって、家族がいたって、
何かあれば死んでしまうかもしれないことに変わりはない」
と思うかもしれません。


しかし、彼にとって、そんなことは問題ではないのです。
彼が求めていたのは、不安に共感して、
一緒に乗り越えてくれえる相手だったのです。


「不安」や「恐怖」といったマイナスの感情は、
誰にも言わないで胸にしまっておくと、どんどん大きくなります。


反対に、誰かにその気持ちを伝えて、
聞いてもらうだけで、小さくなっていくのです。


「体調が悪くて、参ったよ」と言ったとき、
「つらそうだね。大丈夫?」と言ってもらうだけで、安心します。
共感してもらったからと言って、体調がよくなるわけではありません。


しかし、そうやってマイナスの感情を聞いてもらい、
共感してもらうだけで、少しづつ落ち着きを取り戻していくものなのです。


困ったとき、共感してくれる人がそばにいてくれる。
それだけで、人は勇気をもらえるのです。


「切れない絆をつくる」より抜粋

vol. 4923
「失うのは一瞬、築くにはコツと時間がいる」  (2013/10/30 [Wed])
 人との絆は、一朝一夕では築けません。
何度も顔を合わせ、言ったことを実行し、
約束をきちんと果たすことで、お互いの理解が深まり、
良い関係が構築できていきます。
そのためには、長い場合には、何ヵ月も、何年もの時間がかかるものです。


 しかし、そうやって築いてきた絆が壊れるのは、
ほんの一瞬です。どんなに長い時間かけてつくってきたものであっても、
驚くほどあっけなくもろく崩れてしまうことがあるのです。


そう考えると、多くの人との間に絆を結んでいくということは、
とても時間のかかる大変な作業です。


それだけに、絆を結ぶことができた相手との関係には、
価値があるとも言えます。
せっかく築いた相手との絆を簡単に失わないようにするためには、
どうしたらいいでしょうか?


そのひとつが、謙虚であるということでしょう。
「この人は、私に優しくしてくれて当たり前」
「この人は何があっても、私のことを嫌いにならないに決まっている」
「あの人は、何を言っても平気な相手」
そんなふうに思い上がって油断をすれば、
相手からの信頼を失う危険性が高くなるのです。


 今日、おいしいご飯を食べられたのは、
自分一人の力ではありません。そこには、
農家の方の努力、レストランの料理人の技術など、
たくさんの人の手がかかっています。


常に、誰かのおかげで今の自分が元気に生活できていることを
意識して、「おかげさま」の気持ちを忘れないことが、
謙虚でいるためのコツです。


 人との「絆」は当たり前のものではなく、
ありがたい存在であることに気がつきましょう。


 「切れない絆をつくる」より抜粋

vol. 4922
「血のつながりがなくても絆は結べる」  (2013/10/29 [Tue])
 強い絆を結べる相手は、家族だけではありません。
ある男性の例を紹介しましょう。


その男性は、職場を定年退職するような年齢でしたが、
独身でした。もちろん子供もいません。
しかし、彼にはたくさんの仲間がいました。


 「囲碁仲間」です。その男性は囲碁が大好きで、
町内の囲碁道場へ毎日のように通って、
仲間たちと勝ったり負けたりの勝負を重ねていたのです。


彼は仲間の誰かに孫が生まれれば一緒に喜び、
仲間の誰かに不幸なことがあれば、一緒に悲しみました。


 元気のない人がいれば、声をかけて、
ときには車の運転ができない友人を病院まで送って
行ったりすることもありました。彼にとって、
囲碁道場で顔を合わせる仲間たちは、
本当の家族でなくても、家族に近い存在でした。


 そして、そんな彼を、仲間たちも大切に思っていました。
あるとき、その男性が、重い病気にかかり、入院しました。
すると、彼の病室には、入れ替わり立ち代わり、
囲碁仲間たちがお見舞いにやってきました。


 そして、彼が亡くなったとき、仲間たちは涙を流して悲しみました。
この男性は一人暮らしで、すでに定年退職をして仕事を
していなかったにもかかわらず、お葬式には葬儀場の人が驚くほど、
たくさんの花輪が出されました。
その花輪には囲碁仲間たちの名前が書かれていました。


 血のつながりがない相手との絆も、その人の生きがいとなり、
人生の大きな支えとなることがあるのです。


「切れない絆をつくる」より抜粋

vol. 4921
「結婚する人が増えた理由」  (2013/10/28 [Mon])
2001年の9月11日のアメリカの同時多発テロが発生したあと、
アメリカで結婚するカップルが増えたそうです。


カップルたちは、「テロのとき、一人暮らしでとても不安だった。
家族が欲しいと思った」「死んでしまうかもしれないと思ったとき、
やり残したことはないかと考えた。そのとき、
生まれて初めて本気で結婚したいと思った」などと、
それぞれの思いを口にしたそうです。


 それはきっと、多くの人が過去にしたことのない経験をして、
自分の心の底にあった本当の気持ちが
わき出て来たからではないでしょうか。


その本当の気持ちとは、人間の本能ともいえるかもしれません。
それはすべての生物が過去から脈々と受け継いできた、
「家族を得て、子孫を残したい」と言う本能です。


 また、ひとつ屋根の下で寝食を共にする家族の間には、
強い絆が結ばれるものです。その絆は簡単には壊れることはありません。
その「ゆるぎなさ」は、人間の心のよりどころになり、
人々の心を支えることになります。


 実際に、結婚した人たちからは、「子供がいると思うと、
つらいときでもがんばれる」「子供のためなら、
何だってできる」自分がこんなに強くなれるとは思わなかった」
というような言葉を聞くことがあります。


その人が前よりも強くなれたのは、家族の絆が、
その心にたくさんのパワーを注いでくれたからでしょう。


 家族が弱い自分に特別な力をくれるから、
人は家族を求めると言えるのかもしれません。


 「切れない絆をつくる」より抜粋

vol. 4920
「人にしたこと」が自分に返ってくる  (2013/10/27 [Sun])
人は生きている限り、たくさんの人と触れ合う機会があります。
一番接点の多いのは、家族でしょう。


それ以外にも、恋人、職場の仲間、学生時代の友人、
ご近所の方など、例を上げればきりがありません。


 人との絆を結ぶためには、そういうご縁のあった人たちに、
思いやりのある対応をすることから、始まります。


「この人はいつも明るくて、感じがいい人だ」
「この人と会うと、なんとなく元気が出る」
自分とかかわりあうことで、そんな、
プラスの感情を相手に抱いてもらうことができて、
さらに、自分自身も相手からいい印象を受けた時がチャンスです。


二人の関係は、そこから友情や恋愛に発展していくかもしれません。
その関係が長く続けば、二人の間には太い絆が生まれます。


 「情けは人のためならず」ということわざがあります。
人に情けをかけるのは、その相手のためではなく、
巡りめぐって自分のもとに返ってくるのだから、
結局は自分のためなのだ、という意味です。


それを絆にあてはめると、たくさんの人に情けをかけた人、
つまり、たくさんの人に親切にした人は、
相手からも親切にしてもらえる可能性が増えるということです。


 自分が相手に優しくすることで、相手も自分に優しくしてくれる。
こんなシンプルなことから、絆は広がってゆくのです。


「私の周りの人は、誰も私に親切にしてくれない。
だから、今よりも親しくなりたいような人はいない」という場合は、
まず、自分の行いを振り返ってみましょう。


人間関係は鏡と同じです。もしかすると、
冷たい相手の姿は、自分自身の姿を映しているだけかもしれません。


 「切れない絆をつくる」より抜粋

vol. 9419
「絆」があれば人生は何倍も豊かになる  (2013/10/26 [Sat])
 最近、嬉しかったこと出来事を思い出してみて下さい。
「がんばった仕事を、上司に評価された」
「好きな人と楽しいデートができた」
「誕生日に友達から花束をもらった」
いろいろなシーンが思い浮かぶでしょう。


 そして、うれしかったそのシーンには、
自分以外の誰かが存在しているのではないでしょうか?
つまり、私たちが感じる幸せの多くは、
人との絆を通してやってくるということです。


 反対に、最近、一番落ち込んだ出来事は何でしょうか?
「2年間付き合っていた恋人と別れた」
「希望していなかった地方へ転勤させられた」
「あこがれていた人が亡くなった」
「信頼していた友人に裏切られて、
長く続いていた友情が終わった」
そんな答えが思い浮かぶのではないでしょうか。


 これらの出来事に共通しているのは、「別れ」です。
人が大きな悲しみを感じるキーワードのひとつが
「別れ」なのです。「別れ」はたいていの場合、
心に「失敗」や「挫折」などよりも、
さらに大きなダメージを与えます。


そこには、「他に代わりがいない」「取り返しがつかない」
という意味合いが含まれているからかもしれません。


 このように、私たちが生活の中で感じる「喜び」も
「ストレス」も、その多くが人との絆に関係しているものです。


だからこそ、日頃から、人との絆を意識して生きることで、
人生は何倍にも有意義になるのです。


 「切れない絆をつくる」より抜粋

vol. 9418
「本当に頼れるものは「人との絆」」  (2013/10/25 [Fri])
 2011年3月11日の東日本大震災のあと、
東北を中心とした東日本に住む多く人々が
不便な生活を強いられました。


 ある女性とその家族は、自宅の電気や水道が
止まってしまった上に、スーパーにも商品がまったくなく、
「この先どうしたものか」と途方にくれたと言います。
しかし、実際に彼女たちが、食べるものや飲み物に
困ることはありませんでした。


なぜなら、彼女は以前、関西に暮らしていたことがあり、
関西に住む友人がたくさんいたのです。
そして、その友人たちから、食べ物や飲み物、
ガスコンロや乾電池など、援助物資が続々と届いたのです。


 幸い、通常より日にちはかかったものの、
郵便小包の配送がおこなわれたことに助けられました。
彼女はこのときほど周りの人たちとの絆を
ありがたく思ったことはなかったと言います。


 「あの時は、お金はあっても、店に商品がなく、
食べ物を買うことが出来ませんでした。
うちは駅まで遠いのに、当時はガソリンも手に
入らなかったので、どこにも移動できず、本当に不安でした」


 荷物を送ってくれた友人たちがいなかったら、
どうなっていたでしょうか?きっと、もっと心細く、不安で、
不便な生活を強いられていたと思います。非常時の彼女にとって、
本当に頼れるのは、お金でも、仕事でもなく、周囲の人たちの助けでした。


 そう考えると、人は何はなくとも、他人との絆があれば、
生きていいけるのかもしれません。本当に困ったとき、
自分を助けてくれるのは、大切な人との絆なのです。


 「切れない絆をつくる」より抜粋

vol. 9417
「邪見驕慢」 おごりたかぶりの心を捨てよ  (2013/10/24 [Thu])
 先日、友人がお盆の里帰りをしました。
小さい頃母が亡くなり、父一人の手で育てられた彼は、
「親父、俺は新聞記者になってもう15年や。


報道部では俺が一番多くの事件や事故を取材するまでになったんやで、
すごいやろ。これはほんの小遣いや。取っておいてくれ」と言って、
札束を渡したそうです。


 すると父親は涙を流しながら、
「ばか者!お前は数多くの取材をしてラッキーだったと言うのか。
報道の仕事は新たな事故を生まないための
予防と抑止を訴える大切な役目があるのではないか。


母親が聞いたら泣くぞ。一緒に正信念仏偈をいただこう。
とくに邪見驕慢悪衆生のお言葉をいただくがいい」、
そう言って教本を渡したそうです。


 邪見とは「おごり、たかぶり、よこしま」ということです。
私たちのものの見方や考え方は、
善くも悪しくもその時々の立場や環境に大きく影響されています。
そのことに無自覚なまま、自分の判断を疑うことなく、
おごりの気持ちで接していると、
人の事故を「手柄の対象」にしてしまうのです。


 驕慢は自らを誇り、肩をいからせ他を見下し、
聞く耳をもたない姿です。何のための里帰りなのか。


亡き母をご縁に、今の自分をしっかり見つめ直せという
父親の慈悲の心が、友人の心に届けられました。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋


vol. 9416
「凡夫」 「たかが私」を生きる力強さ  (2013/10/23 [Wed])
 父が亡くなり、御門徒がすべて去ってから、
私は何とかお寺を復興しなければという思いにかられていました。
そのためにも、立派な僧侶になれば、
皆がこちらを向いてくれるとも思っていました。


 京都の岡崎別院で「大地の会」という学習会がありました。
全国から僧侶たちが「先生」の話を聞きに集まります。


その講師の一人に九州大谷短期大学教授の
亡き宮城%uE9A197先生がいらっしゃいました。
宮城先生は自分の講義が終わると、
次の先生の話を私たちと同じ場所に移動して拝聴されます。


周りの聴講生は先生が近くに来たということで興奮しています。
ある僧侶は「いつも著書を拝読しています」、
またある僧侶は「近くにおられるとは光栄です。


お茶でも入れましょうか」などと言って近寄ってきました。
すると宮城先生は「皆さん、宮城ごときを相手にしなさんな。
どうか前を向きましょう」とおっしゃったのです。


「宮城ごとき、か……」。私はそばで聞いていて、
なんだかじーんとなりました。


 私は「先生」というのは特別な存在と思っていました。
また、チヤホヤされることへの憧れもありました。


しかし、宮城先生は「私も凡夫の身なんだ。
たかが私ごときに注目するのではなく、
同じ土俵で仏法に出遭っていきましょう」とおっしゃりたかったのですね。


 私は劣等感の裏返しのところにいたのです。
そうではない、凡夫に生きる力強さを目の当たりにした思いでした。



「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋


vol. 9415
「浄土」阿弥陀さまの手のひらに支えられて  (2013/10/22 [Tue])
 「亡き人は天国へ行きました」。
葬儀の喪主挨拶のときに聞こえた一言です。
私はこれを聞き、「違う!」と叫びたくなりました。


 亡き人はどこにいるのか?
「天」―――皆が上ばかり目指せば、憎しみ争いが絶えません。
気持ちはふわふわと舞い上がり、
足元を見ることが出来ない世界です。


浄土はその正反対。大地に足がついた状態です。
争いを水に流す「浄」。そして阿弥陀さまの手のひらに
支えられて安心して生きていく「大地(=土)」。
それが浄土の世界です。


 遺されたものは「亡きあの人に会いたい、
あの人はどこにいるの?」そう考えただけで淋しく
心が張り裂けそうになります。


でも、
「花びらは散っても、花は散らない 
形は滅びても、人は死なぬ」(金子大栄師)

という言葉をいただくと、遺族のその苦悩が「亡き人」を
「無きもの」にしているとも思われてくるのです。
亡き人と私たちは、この大地で必ず
つながっていることを忘れてはなりません。


 そっと足元を見てください。あの人が置いていった
ものが落ちていませんか?


それを受け継ぐために生きていきましょう。
阿弥陀さんは、私と目の前の人、
亡き人が真に共に生き合える世界に目覚めることを願って、
こう呼びかけておられるのです。
「浄土を真のよりどころとして生きろ」と。



「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9414
「無量寿」いただいたいのちを精一杯生きる  (2013/10/21 [Mon])
 あるご法話会に遅れてこられたご高齢の講師の方に、
聴聞者の一人が「そんなに弱られたのに、
先生、お気の毒なことをしました」と声をかけました。


すると「気の毒とはどういうことか?
あなたは不自由な私の姿を見て不幸だと思っていないか?
確かに足腰は弱くなったが、
歳を重ねて初めて今まで支えてくれた足に感謝ができる。


私は不幸ではない。いただいたいのちを精一杯生きれば、
それでいいのだ」と喝破されたそうです。


 親鸞聖人750回忌法要(2011年)のテーマは「いま、
いのちがあなたをいきている」です。


私がいのちを動かしているのではありません。
それは自我でいのちを操っているという解釈です。


私たちが勝手に量ることのできない「いのちのはたらき」を
「無量寿」と言います。


親鸞さんは、「その無量寿を生きていますか」と
呼びかけて下さっているのです。


 よく「いのちを大事にしましょう」と言いますね。
それは、たとえどのような人間、どのような人生でも、
一人ひとりに大事業をなす意味が与えられているということです。


 胸に手をあててください。あなたが動けといわなくても、
心臓は動いています。すでにいのちはここにあります。
あなたは、そのいのちを、そのまま生きさせていただきましょう。


 「汝、無量寿に帰れ。無量寿に帰って、無量寿を生きよ」(信国淳師)


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9413
「父母の心、平等」病気の子を見つけ癒す、それが親の平等心  (2013/10/19 [Sat])
 今、離婚が当たり前になっています。
「バツイチ」という言葉が広まってから、
離婚というものが軽くなったようにも思います。


 私も「夫が浮気をしました。別れたいのですが、
生活費と子どもの問題で悩んでいます」というような相談を受けます。
私はできるだけ離婚は勧めません。大変な労力がいるからです。


しかし離婚することでお互いが束縛から解放されるなら、
それも一つの方法かもしれません。


 親鸞聖人は、『教行証文類』の中で『涅槃経』の
「七子の中に一子病に遭えば、父母の心平等ならざるにあらねども、
しかるに病子において心すなわち偏に重きがごとし」と言う


「一子の譬」を引いていられます。ここで大切なことは、
七人の子供の中で、誰が病気なのかを見つけることです。
それがまず親の役目だというのです。


 離婚という危機に際して、誰が一番大きな傷を負うかを
考えなければなりません。それは離婚する当事者たちではなく、
子供なのです。子どもの傷が一番少ない方法、あるいは
一番早くその傷が癒える方法を考えてあげてほしいのです。


 阿弥陀さんは私たちの親です。目の前に七人がいたら、
まず病気の人を見つけます。その病人が悪人なのです。


「阿弥陀さんは出来の悪い子をかばうの?」
と思われるでしょう。しかし、そういう子ほど阿弥陀さんの目当てです。
それが「父母の心、平等」ということです。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

「南無阿弥陀仏」阿弥陀仏にすべてをまかせますという心  (2013/10/19 [Sat])
 先日、クイズ番組を見ていたら、「『南無阿弥陀仏』」はどこで切るか?」
という問題が出てきました。さて皆さんはお分かりですか?


「南無」と「阿弥陀仏」に分解できます。「南無」という言葉は、
現在のインドやネパールなどで使われる「ナマステ」という
挨拶の言葉と語源が一緒です。「ナマス」は、サンスクリット語で
「屈する」という意味を持ち、「テ」は「あなたに」という意味があります。


 「南無阿弥陀仏」は、インドのお経から発音を写したもので、
「ナモ・ア・ミタ・ブッダ」という言葉から成っています。


この「南無=ナモ」は本来「あなたを信じます」、
「あなたに委ねます」という意味を持っています。


「ア・ミタ・ブッダ」とは、「限りない、はかることのできない仏」
という意味です。限りないのは、「ひかり」と「いのち」です。


いつでもどこでもどこまでも、私を照らしてくださる仏さまが、
アミダブッダ(阿弥陀仏)なのです。


 「南無阿弥陀仏」とは、私の勝手な解釈で人生の白黒を
つけるのではなく、「この阿弥陀仏にすべてをまかせます」
という私たちの心を表現した言葉なのです。


ですから迷ったとき。阿弥陀くじをしませんでしたか?
あとは阿弥陀さんにおまかせです。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9411
「世の中安穏なれ 仏法ひろまれ」すべての人の無事を願って  (2013/10/18 [Fri])
 仏教は自分の欲望を満たすための教えではありません。
仮にほしいものが手に入ったとします。
すべてが思い通りになったとします。


しかし、一方で、人を踏み台にもしていることに
気がつかなければなりません。


 人間はどこまでも自分を正当化します。
そのためには手段を選びません。


悲しいかな、それが私たち人間の持つ、
陰の一面なのです。


 今も争いはなくなりません。世界各国で戦争が行われています。
どんな人間も生まれた時は、真っさらな赤ちゃんだったはずなのに。


 人間は間違った環境の中に生きることで身勝手になり、
欲望にまみれていくのです。
欲望を手にするまで何が何でもつかみ取ろうとします。


そして思い通りにならなければ今度は環境や他人を恨みます。
すべてのことの原因は自ら作り出したものです。


仏法ひろまれ」とは、一人でも多くの人に
聴聞してもらいたいという、親鸞聖人の願いです。


そして「安穏」の意味は「安らかに」「穏やかに」「無事に」と
いうことです。(『親鸞聖人御消息集』)すべての人が無事に
生きてほしい。一人ひとりがそう思えたとき、
もっと落ちついた世の中になるのではないでしょうか。



「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9410
「日ごろの心にては往生かなうべからず」あらゆる「縁」を感じられる感性を  (2013/10/17 [Thu])
 『歎異抄』の中の親鸞さんのお言葉です。
私たちの「日ごろの心」はどういう状態でしょうか。


小さいときに「素直な心になろう」とか
「謙虚さを忘れずに」などと言われて育ちませんでしたか?
これが「日ごろの心」のあり方だと、私たちは思っています。


 けれども、「素直な心になろう」というのは
とても素晴らしい言葉ですが、それはあくまでも、
自分が自分に向かって使う場合です。


他人から言われると、上から一方的に言われているような
気持にもなります。反省とか謙虚とか奉仕とか感謝とか、
みんな上から「しないさい」という形で
教え込まれてきたのではないでしょうか。


 私たちは、「日ごろの心」では助からないのです。
最後まで「自我」という自分の都合で他人を見てしまうからです。
心がけや努力も大切ですが、
それだけで今の自分があるわけではありません。


今日只今、自分がここにあるという事実について、
自分以外のあらゆる「縁」を感じられる感性、
感覚が大切だと思うのです。


 この世に生まれた意味は、「私が私になる」ということです。
そして一人ひとりが因縁成就された
今を生きている身であるという自覚が、
絶対の平等を実現することになるのではないでしょうか。


それが「往生かなう」ということなのです。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋


vol. 9409
「如衆水入海一味」そのままのあなたが救われる  (2013/10/16 [Wed])
 私はこの歳まで何をやってきたのか?
世間に認められる人間でもない、
人さまにほめられることは何一つできなかった、
とぼやきたくなることもあります。


しかし完璧な人など、どこにもいません。
むしろ誰しも、どこかで人を傷つけ、
迷惑をかけながら生きてきたのです。皆、不完全なままです。

 
 泥田の泥水も、渓流の清水も、ひなびた田舎を流れる水も、
高級マンションの蛇口から出るみずも、
すべて海に入ればそのまま大海の一滴になるのです。
「衆水海に入りて一味なるが如し」(『正信偈』)。


どんな人間でも必ずたどり着く場所はあります。
それが阿弥陀さまの懐である海です。
しかし自分で流れるのではありません。
知らず知らずのうちに、
阿弥陀さまの導いていただいているのです。


 はじめから恵まれた清らかな世界はありません。
娑婆という煩悩の泥の中にしか生きられない私たちです。
大切なのは、煩悩に染まることなく、
その中から私の花を咲かせていただくことですよ。


心配しなさんな。そのままのあなたが救われるのですから。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9408
「心を弘誓の仏地に樹てる」大地にしっかり根を張って生きる  (2013/10/15 [Tue])
 皆さんは『西遊記』で有名な三蔵法師をご存知でしょう、
正式には玄奘三蔵法師といいます。


『西遊記』は、玄奘さんが国禁を犯してインドに渡り、
多数の仏教経典を中国に持ち帰るまでの旅行記です。


 玄奘さんはこの中で、「心を仏地に樹て」とおっしゃっています。
「仏地」とは、仏さまの悟りを大地にたとえたものです。


そして、大地に根差す樹木の「樹」で「たつ」ですから、
「心を仏地に樹て」とは、「仏の悟りが、樹が大地に根が張るように、
しっかりと立ってほしい」という願いなのです。


 親鸞さんはこの言葉を大切にされ、
「心を弘誓の仏地に樹てる」(『教行信証』)とおっしゃいました。


「弘誓」とは、私たちを救わずにはおれない仏さまの
「弘(ひろ)い誓い」のことです。親鸞さんは「私たち仏道を歩む者は、
しっかりと仏教に根を下すのだ」と宣言されたのでしょう。


 大地にしっかり根を張っている木は、
雨風が来ても倒れることはありません。
そして、その根から土の中の様々な栄養分を充分に吸収し、
生き生きと育っていきます。


あなたは先にある大きなものばかりに目を向けて、
フラフラ迷っていませんか?
それより、しっかり代地に根を張って生きましょう。


悟空も自由に一人で生きていくぞといきがっていても、
お釈迦さまの手のひらという大地で生かされていたことに気づいたのです。


 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9407
「心を弘誓の仏地に樹てる」大地にしっかり根を張って生きる  (2013/10/14 [Mon])
 皆さんは『西遊記』で有名な三蔵法師をご存知でしょう、
正式には玄奘三蔵法師といいます。
『西遊記』は、玄奘さんが国禁を犯してインドに渡り、
多数の仏教経典を中国に持ち帰るまでの旅行記です。


 玄奘さんはこの中で、「心を仏地に樹て」とおっしゃっています。
「仏地」とは、仏さまの悟りを大地にたとえたものです。


そして、大地に根差す樹木の「樹」で「たつ」ですから、
「心を仏地に樹て」とは、「仏の悟りが、樹が大地に根が張るように、
しっかりと立ってほしい」という願いなのです。


 親鸞さんはこの言葉を大切にされ、
「心を弘誓の仏地に樹てる」(『教行信証』)とおっしゃいました。


「弘誓」とは、私たちを救わずにはおれない仏さまの
「弘(ひろ)い誓い」のことです。親鸞さんは「私たち仏道を歩む者は、
しっかりと仏教に根を下すのだ」と宣言されたのでしょう。


 大地にしっかり根を張っている木は、
雨風が来ても倒れることはありません。


そして、その根から土の中の様々な栄養分を充分に吸収し、
生き生きと育っていきます。


あなたは先にある大きなものばかりに目を向けて、
フラフラ迷っていませんか?


それより、しっかり代地に根を張って生きましょう。
悟空も自由に一人で生きていくぞといきがっていても、
お釈迦さまの手のひらという大地で
生かされていたことに気づいたのです。



 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9406
「超世」すべてを受け入れて生きていくこと  (2013/10/13 [Sun])
 「なぜこんなところに嫁いだのか」「祖語とを辞めたい、
でも他に仕事がない」「生きている意味がない」等々、
今を受け入れられず悶えている人がどれほど多いことでしょう。


「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、
たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちを
といきかんがためなり」(『歎異抄』)


 京に帰られた親鸞聖人を、命がけで訪ねてきた方々がいました。
目的はただ一つ、往生極楽のみちを問わんがためでした。


 今みたいな便利な交通機関はありません。
関東から京都までの十余か国を超えていくのです。


超えていく国のそれぞれに、風土,習慣、言語の違いがあります。
道中どんなことに出会うかもしれません。
緊張もし、不安も感じたことでしょう。


 「この十余か国のさかいをこえて」とは、
人生と同じではないでしょうか。
私たちの生きていく道のりも平坦なばかりではありません。


でこぼこ道、山道、下り坂……。
障害を避けたいと近道や抜け道をしても、
また別の危機が待っています。


 そう、避けても仕方がないのです。
「超えた先の世界を見てほしい」
と親鸞さんは願われました。


「超える」とは障害も何もかもすべて受け入れていくことです。
私たちには、避けて通れない道が必ずあるものです。
それを受け入れてこそたくましくなれるのです。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9405
「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」すべての人間は平等  (2013/10/12 [Sat])
 お釈迦さまが布施の行に回っていたとき、
老人が質素な食べ物を捧げました。


お釈迦さまは微笑みながらいただきました。
その様子を見た村人が、「もともと一国の王になるはずの人が、
あんな粗末な食べ物に感激するなんて」とバカにしています。


するとお釈迦さまはその村人に
「あなたは今までに珍しいものに出会ったことはありますか」
とたずねました。


 このあいだ旅をしたとき、とてつもなく大きなニグローダの木を見たよ。
たった一本の木陰に五百人ぐらいが休んでいた」
「あなたはニグローダの種を知っていますか」
「知っているとも。あれはとても小さい。けしの種の半分もない」
「それは先ほどの老人の布施と同じです」


けしの種より小さいかもしれませんが、
すみきった『まこと』の心で捧げていただきました。


小さな種でも、大木になるのです。人の心がまことの種となって、
どんなに大きな幸福がおとずれても不思議ではないでしょう」
(『仏典童話』より)


 「弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず」(『歎異抄』)
――健康や財産の有無、学歴、年齢の
差で阿弥陀さんは人を選びません。


この大地に生きるすべての人間は平等なのです。


 たとえ価値がないように見えるものでも、それはいのちの種です。
その種が育てられ、やがてきっと大きな花を咲かせることでしょう。



 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

「念仏」 それは今の自分の心と向き合うこと  (2013/10/11 [Fri])
 講演会が終わったあと、ある社長さんから声をかけられました。


「私の母は毎朝、お勤めをしていました。
これは母の仕事と思い、いつも通り母の後ろを通って
出勤しようとしたある朝、ふいに母が私のズボンの裾を握り


『せめて一回でもいいから阿弥陀さんの前に座ってお念仏をいただこう』
と言うのです。しかし私は仕事のことしか頭になく
『母ちゃん、そのうちにね』と言って母の手を振りほどきました。


それから一週間後、母は亡くなりました。
私はとんでもない親不孝者です。


会社を大きくすることばかり考えて、人を蹴落とし傷つけてきました。
お念仏なんかする余裕もなく。母が亡くなり枕経のお勤めで、
皮肉なことに生まれて初めてお念仏の声がでました。


しかしもう遅いですよね、母が死んでからのお念仏なんて……」


 私は、「決して遅くないですよ。お母さまは死という形であなたに
身を持ってお念仏を教えてくださった。
あなたは、せずにおれない身となったのです」と答えました。


 今の心と書いて念。
心を大地に落ちつけて、今の自分と向き合うのが念仏です。


お母さまが願われたことに、もう一度、心の中で出会てほしい。
お母さまの温もりに触れることはできなくても、
その存在はなくなりません。お母さまを生かすも殺すも
あなたの心しだいなのですよ」そんな話をさせていただきました。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9503
「不可思議光」私の心を照らす阿弥陀さんの光  (2013/10/10 [Thu])
 あるコンサートホールで、歌手のリハーサルがありました。
何百人もの少年が、将来自分も主役として最前列で歌うことを夢見て、
バックダンサーを務めています。


ふと、振付師がリハーサルを中断し、
一番後ろで踊っていた少年に向かって、厳しく注意しました。


「一番後ろにいる君。君がちゃんと踊らないから、
ステージが台無しじゃないか」。


少年は、まさか自分まで見られているとは
夢にも思っていなかったそうです。


 不可思議光――はかることのできない無量なるいのちの働きが、
私を照らす光にたとえられています。


どこまでも暗く冷たい私の心の闇を、はっきりと照らし出してくださる、
それが「不可思議光」です。


 朝起きてカーテンを開けると、陽の光が部屋に差し込んできます。
そのとき、今まで気づかなかった埃が目に映ることはありませんか?


パソコンの液晶モニターや机の上、
あるいは鏡面がこんなに汚れていたなんて……。
光が差してはじめて分かることです。


 これと同じように、阿弥陀さんもどこまでも私たちの
心を照らし出してくださいます。
漏らすことなく見届けてくださるのです。

 
 冒頭の少年は、どうせバックダンサーだしという
投げやりな気持ちを持っていたようです。


けれども自分の踊りを注意されたことで、
「僕も見てくれているんだ」という喜びでいっぱいになったと言います。

 
「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋


vol. 9502
「金剛心」どんな問題も乗り越えて生きていく  (2013/10/09 [Wed])
 如来の仰せにまかせたる信心。
その信心を親鸞聖人は「金剛心」と称えました。
金剛とは金剛石、つまりダイヤモンドのことです。


 さて、婚姻の証としてダイヤモンドを送る風習、
その起源は五五〇年以上前にさかのぼります。


一四五六年、オランダにベルケムとい宝石職人の青年がいました。
彼はとても腕のよい職人でしたが、貧しく、足の障害を持っていました。


そんな彼が、自分の働く工房主のお嬢さんに恋をし、
思い切って彼女の父親に結婚を願い出たのです。


 父親は貧しい彼に娘を嫁がせることが不安でした。
でも大切な職場の仲間である彼の誠実さを思うと、
頭ごなしには断れません。そこで、上手に断念させるために、
「ダイヤモンドを磨くことができたら」と、
当時の技術では無理難題な条件を持ちかけました。


 ところが彼は、その日から一生懸命研究し、
見事にそれに成功しました。この技術は世界から注目され、
彼は一流の宝石職人となります。以来ダイヤモンドは、
その硬質さが固い絆の象徴とみなされ、
婚約指輪として普及したそうです。


 金剛とは、どんな問題をも乗り越えて生きていくことです。
誰もがどこにもない「尊い命の原石」持っています。


しかしそれは宝石とは限りません。親鸞聖人は、
金剛は普通の石であってよい、
それにもまた生かされる道があるとおっしゃるのです。


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋


vol. 9501
「無碍の一道」勇気ある一歩を踏み出す決意を  (2013/10/08 [Tue])
 『観無量寿経疏』の中に出てくる比喩に「二河白道」があります。

一人の旅人が西に向かって百千里行くと、二つの河を見つけました。
火の河が南に、水の河が北にあり、それぞれ広さが百歩で底がなく、
無限に続いています。

中間に広さ四五寸(十数センチ)の白い道が連なり、
水と火が絶えず上に迫っています。そこへ、群賊と悪獣が旅人を
殺そうと襲いかかります。彼は恐怖のあまり西へ走り出しこの川に直面し、
前進しても後退しても止まっても死を免れない状況に陥ります。


 群賊悪獣とは、私たちが苦しみ、悩み、惑わされている様子のたとえです。
また、水の河は、欲の心、火の河は怒りの心です。
そして、わずか四五寸の「白い道」、これは勇気ある一歩を踏み出す
ことを表しているのです。


 一歩を踏み出すきっかけは、「よぶ声」と「勧める声」、
それがお念仏に出遭うということです。
そして踏み出すことを妨げるのは、
ほかならぬ自分自身の欲や怒りの煩悩です。


 私の親友のT君は全盲です。失明の宣告を受けたとき、
死しか考えられなかった彼が、親鸞さんの教えに出遭います。


お念仏をいただく者は無碍の一道と知り、
不自由を歎き悲しむ囚われの「自分」から解放され、
絶望の中で「白い道」を一歩踏み出す決意をしたのです。



 無碍とは何事にも妨げられない、
もう迷わないという自らへの宣言なのです。



「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9500
「心多歓喜の益」心にたくさんの歓喜を持って  (2013/10/07 [Mon])
 今、無表情な人が多くなっているように思いませんか?
先日、コンビニで買い物をしました。


レジでは二十代の女性が面倒くさそうに対応。
その帰り際、掃除をしていた外国人のバイトくんが私の顔を見て
「ありがちょうごぜいました」と、拙いながら元気な声をかけてくれました。


「留学生?」と聞くと「はい。日本は、素晴らしいです。
四季があって食べ物も水もおいしい。日々感謝してます」との返事。


 「ありがとう」の反対語は何だと思いますか?それは「あたりまえ」です。
あたりまえには「感動、感謝、嬉しい」という思いがありません。何をしてもあたりまえ。でも、本当にそうでしょうか。


 親鸞聖人は『教行信証』の中で、利益に対して
「現生十種の益」を挙げられています。


その中に「心多歓喜の益」があります。
これは、心に喜びが多いという利益のことです。


でも、この喜びは、人間の願望を助長するだけのものではありません。
また、「歓喜」の「歓」は「身をよろこばしむるなり」、
「喜」は「心をよろこばしむるなり」と親鸞さんは説いています。
身と心が一つになってこそ本当の喜びがいただけるというのです。


 「今日も同じことの繰り返しか」と思うか、
「今日はどんな一日が待っているかな」と思うかだけで、
一日は大きく変わります。小さくとも、歓喜の数を多く持ちたいですね。



 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9499
「摂取不捨」捨てられても見捨てない仏の心  (2013/10/06 [Sun])
 物理学者のアインシュタイン博士が来日されたとき、
ある真宗の僧侶に「仏さまとはどんな方ですか?」とたずねました。


すると僧侶は、「姨捨て山」の話を始められたそうです。
食糧事情の貧しかった時代、一定の年齢に達した
年老いた親を山の中に捨てるという、悲しい歴史がありました。
村の決まりですから、そむくことはできません。


 息子は母親を背負い、いくつもの山を越えて、
人里離れた奥深い場所へと向かいます。


そしていよいよ別れのとき、母親が息子に
「おまえはこんな山奥まで来たことはないだろう。
迷わず帰れるか?」とたずねました。


「私は背負われながら来る道すがら、
手を伸ばして木の小枝を折っては、下に落としておいた。


だから通ってきた道には必ず小枝が落ちている。
もし分かれ道で迷ったら、小枝の落ちている道を
選んでいくがいい」と言って、我が子に手を合わせました。


その母親の心を知った息子は、号泣し母親を連れて帰ったという話です。

 まさに今、自分は捨てられようとしておるのに、
それでもわが子のを見捨てることができないまさしく仏の心です。
これが摂取不捨。


 親鸞聖人は、このことを「嫌わず」「見捨てず」「選ばず」として、
大切にしていかれたのです。



 「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

「現世の利益」生きることのすべてにご利益がある  (2013/10/05 [Sat])
 大学の講義でのこと。
「先生!今日は早めに授業を終えて」と一人の学生からいわれました。


私はその学生に「あなたの生きがいは何?」と質問しました。
「ラグビーや。宗教なんて年寄りになって勉強すればいいやん。
しかも親鸞さんはご利益を否定しているから、おもろないわ」


「突然にごめんね。あなたは今、右足が切断されたらどうする?」
「ラグビーできないのなら死ぬしかない」
「なんで右足がなくなったら死ぬの?


親鸞さんはね「怪我をしても病気をしても、
そのことで人生の深い意味が見出される」とおっしゃっていますよ。


病気をして初めて生きることのありがたさ、
他人への思いやりの心を知り、病気の人とも


心から共感できる身になれる。親鸞さんが教える利益とは、
ある条件が満たされることではなく、


すべての生活に生きる意味と喜びがあることを言っているのよ。
すべてに無駄なことはない、だからラグビーをするための
心の準備運動も大切よ」。私は彼のそう伝えました。


すると、「妙慶先生。ラグビーではゲームの終わりを告げるとき、
ゲームセットとは言わずノーサイドと言うんやで」と、


彼も教えてくれました。ゲームが終わって「敵味方がなくなる」
という意味を含んでいるのですね。


私たちのこの人生も、良い悪いの白黒ではなく、
どの経験も皆、御利益なんです。




「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

vol. 9497
「大慈悲心」ただ抱きしめ悲しみを伝える  (2013/10/03 [Thu])
 講演会で、ある女性から質問がありました。
「私の子供はひどく悪いことばかり繰り返します。
仏罰があたることはあるのでしょうか」

私は「安心してください。仏さまは罰はあてません」と伝えました。
罰は怒りです。親の怒りを叩きつけると、
相手はその怒りを別の場で表します。
それが非行、いじめと発展していくのです。
仏さまはそんな子どもを抱きしめ、
「お前は人を傷つけるために生まれてきたのではない。
私は悲しいよ」と伝えます。
子どもは二度と人を悲しませたくないと思うでしょう。

 仏さまは「慈悲」の方です。
「慈」とは慈しみの心を持って他人に楽しみを与えること、
「悲」とは哀れみの心を持って他人の苦しみを取り除くことです。

親鸞聖人は「慈悲」には二種類あると言っています。
一つは「自力聖道門の慈悲」で、あらゆる者を哀れみ、
愛し、育てようとすることです。しかし、
すべての人を平等に助けることができるでしょうか。
この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、
気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできません。
ですから、「浄土の慈悲」をいただくほかないのです。

 実母の葬儀に僧侶仲間が駆けつけてくださいました。
皆ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を申すだけです。
それ以外の言葉は何もありません。
ただ念仏することだけしかできない身なのだというお姿でした。
それこそが徹底した大いなる慈悲の心なのです。

 
「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

「臨終の善悪をばもうさず」生死のことは如来にまかせて  (2013/10/02 [Wed])
 講演会場へ早く着いたので、喫茶店で休憩をしていました。
隣の席のご年配の方々が何やらこんな話をしています。
「どうせ死ぬなら、楽に格好良く死にたいな!」
「そやそや!俺も死ぬときは布団の中がええな」

 どうでしょう。これは誰もが考えたことのある
「死に方」ではないでしょうか?
親鸞さんが八十八歳のときに、
関東の人たちに書いた手紙があります。
「臨終の善悪をはもうさず。
信心決定のひとは、うたがいなければ……」(未灯鈔)

 当時の関東地方は、疫病や飢饉が横行し、
まさに地獄絵のような状態でした。
居ても立ってもおれない気持ちで、
親鸞さまは書かれたのでしょう。

「臨終の善悪をばもうさず」とは、
「生きることも思い通りにならないように、
死に様も人間の思惑を超えたもの。
だから生死のことは如来にまかせえて、
賜ったいのちを大切に生きましょう」ということです。

 寿命とは、一人ひとりのかけがえのない命をまっとうすることです。
時間や場所まで考えなくていいのです。
「胸に手をあてて考えろ」という言い方がありますね。
そっと胸に手を当てて、
心臓が鼓動している今という事実に向き合いましょう。

「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋


「回心」頑固な自我を逆さまにする  (2013/10/01 [Tue])
 大谷専修学院で学んでいたとき、師から質問されました。
「川村、将来どうするのか」「食べていかないといけないので、
とりあえず就職します」

「食べるために仕事をするのか?
しかし人間、食べていてもいつかは死ぬんやがな」
さらに師は「どんな人間になりたいのか?」と聞いてきました。

「この世間を生きるためにも心を強くしたいです」
「心こそが一番あてにならんのや。
現に川村の心は雲のように時間ごとに変わっているやろ。
生きる中で確かなものを見つけろ」

そう言われて、それまで考えていた常識が土俵の外に
投げ飛ばされたような気がしました。
このことを「回心」と言います。

 グラスの中に水があります。
その水を流すにはどうしたらいいでしょう。
グラスの口を逆さにしないと流れません。
私の中にあるカチカチにになった
頑固な自我を逆さまにしていく。
グラスの中を空っぽにしてこそ、本当の生き方をいただけるのです。

 「泳げないよ」と水面でバタついて焦っているのが私たちです。
しかし阿弥陀さんの知恵をいただくと、
泳ぎのコツがわかるようになります。

あなたの回心はいつ?


「ほっとする親鸞聖人のことば」より抜粋

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