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2013年 8月

vol. 8467
「能力のある人は怒りません」  (2013/8/31 [Sat])
 仕事でも、プライベートでも、自分の思うようにいかず、
ついイライラしてしまうことがあるでしょう。
人はなぜ怒ってしまうのか。

 「つい怒ってしまう」というのは、
結局、そこで能力が底を打ったということです。
本当に優れた能力を持ち、
余裕を持っている人は怒ったりしません。
自分自身に対してはもちろん、誰かがミスをしたり、
思うような働きをしなかったりしたために怒ってしまったときは、
ぜひとも「ああ、私の能力もここまでか」と思ってください。

 相手がどうあれ、自分の能力に余裕があれば
怒らずに済んだのです。
よく「どうしたら怒らないようになれますか」と
質問されるのですが、「能力が足りないから怒る」と
いう状況を考えれば、対処法は簡単です。
能力をつけるしかありません。
怒りを静めるのではなく、そう簡単に怒りが沸き起こって
こないレベルに達するしかないのです。

 つまり私たちは、怒りの感情が湧き起った分だけ、
再び努力して能力を高めなければなりません。
他人のせいにして怒っている場合ではないのです。
怒りっぽい人、ちょっとしたことですぐにイライラしてしまう人は、
相当能力が足りません。
そのことを認識し、
能力を高める努力を今すぐしなければなりません。

 怒りという感情は実にネガティブですし、
そんな感情が生まれた瞬間、能力は底を打ち、
仕事の手はとまってしまいます。
怒りを静める方法を考えるのではなく、
「どうしたら怒りが生まれないかを工夫することが大事なのです。


 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8466
「何もできない自分」を自覚する  (2013/8/30 [Fri])
 教わる側についても考えてみましょう。
元来、新人とは「何もできない人間」です。
完璧を求められる仕事の現場にあって、
まったく役に立たない人。それが新人です。
まずは、その大前提を理解するべきでしょう。
つまり新人とは、怒られようが、怒鳴られようが、
殴られようが、文句の言えない存在なのです。

 リーダーや先輩、ベテランと呼ばれる人たちは、
人格者でなければいけませんし、
人に教えるときは「相手が理解できること」を
徹底的に意識しなければいけません。
しかし、そこに新人がつけ込んで
「あんな人の言うことは聞けない」
「あの人の話は理解できない」など
文句を言うのは論外です。
自分の立場を全く理解していません。

 新人というのは、何でもいいから勉強し、
少しでも役に立つ人間になれるよう、
ひたむきに努力しなければなりません。
新人が我を張って「ああだ、こうだ」と
不満を言うなどありえない話なのです。
人に何かを教わる時は、
そのくらい徹底した意識が必要です。

 組織の中では、ベテランと新人の双方が
自分の立場と役割をきちんと認識することが大事です。
ベテランにはベテランなりの、
新人には新人なりの学ぶべきことがあり、
やるべきことがあります。
これは先生と生徒の関係も同じです。
本来「教える側」と「教わる側」には明確な立場差があって、
お互いを尊重できるはずなのです。

師弟関係というのは、
時には親子よりも強い絆で結ばれます。
しかし残念ながら、世間ではなかなか
そんな関係はできにくいようです。
教える側は「相手が理解できるように教える」
義務を背負い、教わる側は「無条件に受け入れ、
ただひたすら学ぶ」べき立場であることを認識する。
その当たり前の役割を、今一度確認するべきです。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋


vol. 8465
教えるのがうまい人は、100%相手の立場に立てる人  (2013/8/29 [Thu])
 本来、仕事とは自分の領域を完璧にこなすものですが、
やはりベテランともなると「新人や後輩を育てていく」
という役割も求められるようになります。
長く働いていれば相応に環境も変化してきます。
環境が変化すれば、当然求められることも変わってきます。
ですから、ベテランと呼ばれる人たちは「人を育てる」と
いうことを少しずつ意識していかなければなりません。

 人を育てるに先立って、やらなければならないことは何か。
それは「自分を育てること」です。
自分一人の領域で仕事を完璧にこなすのと、
「人を育てる」「人に教える」というのはまったく違う仕事です。
そこに従事するからには、自分自身が人格者でなければなりません。
 
そもそも「教える」とは、100%相手の立場に立って考えること。
どんなに立派な話をしても、相手が理解できなければ、
教えたことにはなりません。相手が理解して初めて、
あなたは、「教えた」といえるのです。
教えるとは「相手が理解できるように話すこと」であって、
「相手が理解していない」ということは、
あなたの教え方が悪いということです。
ベテランあるいは先輩というのは、
そのくらいつらい立場なのです。
だからこそ、自分自身の人格を育てなければ成立しない存在なのです。

 教えるときに注意するべきポイントは、
「まずは自分がやってみる」ことです。
ただ「これをやってみろ」ではなく、
「私もやってみたら、こんなふうにうまくいったので。
ぜひあなたもやってみるといい」というのが基本スタンスです。
仏教の世界では、出家者にたくさんの戒律を定めています。
しかし、それもブッダが「これをやってはいけません」
と説いているだけではありません。

 ブッダは常に、「私もこの戒律を守ったところ、
大変穏やかに、気楽に、楽しく暮らせるようになりました。
だから、あなたたちもやってみなさい」と進めています。
自分がやってみて他人にも進める。誰かに、
何かを教えるときは、これが基本であるべきなのです。

 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8464
リーダーほど「目立ってはいけない仕事」はない  (2013/8/28 [Wed])
 リーダーの仕事とは何か。
リーダーがやるべき一番大事なことは、
部下に「自信をつけさせてあげること」。
チームに新人がいたら、一つ経験させてあげて
「これ自分でやったんだ」という自身をつけさせる。
これが、リーダーに課せられたもっとも重要な役割です。

そもそも、人間は自信なんて持てないもの。
いくらリーダーが「自信を持ってやれ」といっても無理な話です。
そこでリーダーは、その人に適した仕事を与えて
「責任は私が取るから、気楽に思い切ってやってみなさい」
といいます。自信のない人に責任まで押しつけてしまったら、
それはものすごいストレスになります。
きっと経験を積む前に心がつぶれてしまいます。
最初はストレスのない状態で、経験を積ませて、
自信を植えつける。
これが大事です。

つまり、リーダーとは「親になってみること」です。
子どもに経験を積ませて、失敗したら親が責任を取る。
これが当たり前です。これがリーダーの基本。
そして、部下が一つ実績を残したら、
みんなの前で必ず公表してあげる。
これも大事です。
実際に部下がやった仕事は10%で、
残りの90%をあなた自身がやったとしてもです。

なぜなら、リーダーは「相手に自信をつけさせる」
のが仕事だからです。
自分の技術や能力が優れていることを主張するのが
仕事ではありません。みんなの前で褒められた人は
「次はもっと頑張ろう」と思う。それで十分なのです。
むしろ、そう仕向けるのがリーダーの仕事です。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8463
「素直で謙虚」な人になりなさい  (2013/8/27 [Tue])
自信の源になるものは何か。それはズバリ経験です。
私たちは経験を重ねることによってスキルを身につけ、
完璧な仕事ができるようになります。
その結果自信が持てるようになるのです。
自信とは能力によって生まれるものではなく、
経験によって熟成されるもの。
リーダーとしての能力があるといっても、
その立場を経験したことがまったくなければ
力を発揮することができません。

自分の仕事に自信を持ちたければ、
コツコツと経験を重ねるしかありません。
「日々の学び」と言い換えることもできます。
毎日の仕事から何を学び、自分の中に何を蓄積していくか。
これがポイントです。

よい学びをするためには謙虚でなければいけません。
素直で謙虚。これは、人としてとても大事なことです。
日々学び、真面目に経験を積み重ねないことには、
本当に自信など得られるはずはありません。
そして「真面目に学ぼう」としている人は、
当然謙虚になります。「自信」と「謙虚」という言葉は
一見すると相反するように思えますが、
は密接につながっているものなのです。

「自分が担える範囲はごくわずかだ」ということを知り、
その部分において誠実に学ぼうとする謙虚な人が、
最終的には本物の自信を得ます。
「私は自信がある」などと調子に乗って謙虚さを失ってしまったら、
本物の自信など得られるはずがないのです。
仕事で自信をつけ、周囲から信頼される人になりたければ、
「自分のやるべき範囲」を知り、しっかり経験を積むことです。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8462
「自分らしく、その仕事をすればいい」  (2013/8/26 [Mon])
どうしたら自信が持てるようになるのか。
そんな質問をする人がいますが、はっきり言って、
自信なんかそうそう持てるものではありません。
私だって、世の中のほとんどのことについては自信がない。
当たり前の話です。自分が知っていることに比べ、
世の中には「知らないこと」のほうが圧倒的に多いからです。

しかし、「自信がない」と言って、
無責任でいていい訳ではありません。
せめて自分が仕事として担っている範囲、
専門として関わっている分野においては
「小さな自信」を持たなければなりません。
ここが大事です。

あなたも、私も、仕事として担える範囲はほんのわずかな部分です。
ただし、そのわずかな部分においては自信を持って完璧にこなす。
これが仕事の基本です。仕事に関して自信が持てない人は
「分不相応なくらい、幅広い自信」を持とうと
しているのではないでしょうか。「あれもこれもできなければいけない」
と思えば、自信なんてなくなります。あらゆることに対して、
「やらなければいけない」「このくらいできなければダメだ」と
考えるのではなく、自分の手に負える幅を考えてみてください。

あなたが担えるのは、ほんのわずか。
そのわずかな部分とはどこでしょうか。
あなたに仕事を依頼した人が、本当にあなたに
期待しているのはどこでしょうか。
その小さなポイントを見つけて、その部分だけは
完璧にこなせるように精進する。
自信をつけるとしたら、これしかありません。

逆に言うなら、自分が「できること」と「できないこと」を
明確に区別するのも、自信をつけるコツです。
きちんと自分を見つめれば、きっと何か「できること」が
あるはずです。そして、その「できること」を
完璧にこなすことこそ、仕事をするということです。
仕事として自分が担っている部分を理解する。
「相手が何を求めているのか」を考える。
自信のネタはそこにあります。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8461
どんな結果も「しょうがない」と受け入れる  (2013/8/25 [Sun])
 仕事がうまく進められない。
もっとスムーズに仕事を終わらせたいのに、うまくはかどらない。
ビジネスの現場ではよく聞く問題ですが、そんな人に質問をします。
「そもそも仕事とは、あなたの内側にあるものですか。
外側にあるものですか」言うまでもなく、
仕事とはあなたの外側にあるもの。
太陽や空、地球や風と同じように、あなたの外側にあります。
自分の外側にあるものを「完璧に管理して、
うまく進めてやろう」などと思っても無理な話です。

地球や風を思うがままに動かせないからといって
「どうにもうまくいかない」と悩む人がいるでしょうか。
突き詰めれば、仕事だって同じなのです。
予定通りに進まなくて当たり前。
そんなことで思い悩むのは、実はとてもナンセンスなのです。

 繰り返しいいますが、物事は極端にすると、
その本質がわかりやすくなります。
たとえば、目の前の仕事についてはどうでしょうか。
仕事に関しては「どうにかしてプラン通りに進めよう」
「自分が思うように完成させよう」と思いますが、
空や太陽に対してそう思う人はいません。
それらは自分の外側にあって、
決して管理できないとわかっているからです。
いってしまえば、自分の肉体だって同じ。
多くの人は「自分の肉体は自分のもの」と思っていますが、
とんでもない間違いです。

究極的には「自分のもの」なんて何もないのです。
太陽や地球が勝手に動いているように、
私たちも勝手に自然に生きているだけ。
ただそれだけのことです。あれやこれやと計画したり、
望みを持ったり、期待したりしても、
結果がどうなるかなんて誰にも分りません。
それが自然の在り方です。

結局のところ、「仕事が計画通りに進む」なんて、
あなたの勝手な妄想なのです。
何かをやる際に、計画を立てて物事を進めるのは大いにけっこう。
すばらしいことです。
ただし、私たちは身の程を知らなければいけません。
自分自身が管理できるのは、
せいぜい自分の心ぐらいしかありません。
それ以外のものはすべて、あなたの思いや期待とは関係なく、
勝手気ままに動いていきます。

自分の肉体すら管理できないのですから、
仕事はもちろん、周囲の環境を思い通りに
変えることなどできるわけがありません。
「仕事や計画が思うように進まない」と悩む前に、
その大前提を理解してください。
そう考えれば、いつ、どんな時でも心は冷静でいられます。
そして物事が多少うまくいかなくても、
軽やかな気持ちでいられるはずですよ。
 

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8460
「なんとかしなきゃ」と焦るから、がんじがらめになる  (2013/8/24 [Sat])
ビジネスマンは忙しい……というのが通説のようです。 
「忙しい、忙しい」と周囲に対して自慢げにいう人、
これは問題ありません。忙しいことがその人の満足、
充足につながっているならそれはそれでハッピーです。
「忙しい、忙しい」と言いながら、充実した日々を送れるのなら、
まったく問題はありません。

 忙しいことがストレスになっているケースは問題です。
忙しさが「ストレス型」の場合、どんな時に「忙しい」と思い、
ストレスを感じるのでしょうか。
人は一つの仕事だけに従事している時はあまり忙しいとは感じません。
では、どんな時に忙しいと感じるか。
それはAという仕事をやっている時に「Bもやらなきゃ、
Cもやらなきゃ」と思うこと。
そんな状態に陥った時、人は強烈なストレスを受けてしまうのです。
このタイプの人は、現実と妄想の区別がついていません。
妄想ばかりが膨らんで、まったく現実が見えていないという意味です。

 そもそも時間というものは、何をやっていても、やっていなくても、
普通に過ぎてゆくものです。
時間とは常に同じスピードで、淡々と過ぎてゆくものだからです。
そして、その時間という枠の中で「できること」は初めから決まっています。
一時間で何ができるか、一分間で何ができるかはもともと決まっています。

ところが妄想に囚われている人はこの前提がわかっていません。
「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」と勝手に考え、悩んでしまう。
妄想だけを膨らませ気ばかりが焦ってしまう。
これこそがストレスです。冷静かつ現実的に考えれば、
一つの時間にできることは一つしかありません。
その時間にAという仕事を乗せるか、
Bという仕事を乗せるかは自分で選ぶしかありません。
どうやっても両方は乗せられません。
結局は優先順位をつけて
「一つの時間には一つのものしか乗せられない」
と徹底して割り切ることです。

忙しさにストレスを感じる人は、何よりもまず「自分の妄想」と
「現実」をはっきり区別するべきです。
いくら妄想を膨らませても、
決まった時間にできる仕事は限られています。
こんな時には、「すべてやらなくてはいけない」と
いう考えは捨てたほうがいいのです。
冷静に現実を受け入れた上で、
それ以上の仕事量があるとしたら、
その配分がまちがっているのです。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8459
漫然と時間を過ごすことほど無駄なことはない  (2013/8/23 [Fri])
 ここに野球が好きな少年がいて、一万回の素振りをするとしましょう。
一万回バットを振れば、それなりに上達すると思われるからです。
たしかに一万回もバットを振れば、少なからず上達するでしょう。

ではここで問題です。
この少年はどのタイミングで上達しているのでしょうか。
一回、二回、三回という繰り返しの中で少しずつうまくなっているわけです。
少しずつ変化し、成長していなければ、
一万回の素振りをしても成長は見込めません。

 まさにここに「時間の本質」が隠れています。
素振りは一万回あったとしても、その瞬間、瞬間は一度しかなく、
その都度成長しなければ、時間は無駄になってしまう。
私たちは、いまという(すぐに消え去ってしまう)
時間を大事に生きて、
ちょっとずつでも成長していかなければいけません。

本来的には、「代わり映えのしない一日」など、存在しないのです。
ただ私たちは、その変化を体感できていないだけ。
体感できるほどの変化は、
その積み重ねからしか生まれないものだからです。

 「一期一会」という言葉をご存知でしょうか。
「人と会うとき、その出会いは一度きり」という意味にとられがちですが、
この言葉の本来の意味合いは、
「人に会う」ことに限った話ではありません。
もっと広い意味合いで
「すべての物事との出会いはたった一度しかない」と
いうのが本当の意味です。

 「すべての物事との出会い」とは、
「時間との出会い」にほかなりません。
時間管理の基本とは、「いまというたった一度しかない
瞬間をどう生きるか」に尽きます。単純に時間を区切って、
「そこで何をするか」というスケジューリングの話ではありません。

 すぐに消え去っていく時間。
その積み重ねの中で、自分がどう変わり、
成長していくのかを意識する。これこそが、
「命」という時間を活かす管理術です。
あなたは、「いま」というかけがえのない時間を無駄にしていませんか。


 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

「今日やること」を明日やる人に成功者はいない  (2013/8/22 [Thu])
 時間管理はどうしたらいいか。これもまた興味深いテーマです。
では、そもそも時間とは何か。その根本を知っているでしょうか。
物事の根本を知らずに「とにかくうまく時間を使いたい」と
いうのは虫のいい話です。

まずは、「時間とは何か」という部分について考えてみましょう。

まさに時間とは「命そのもの」です。
私たちは時間を生きています。
時間というものは私たちの内側にあるものです。
この考えが出発点となります。
ところが残念なことに、
多くの人は「時間は自分の外側にある」と思っています。

たとえば、会社で働く人は「朝九時に会社に行って、
夕方の五時まで働かなければならない」と考えています。
これではまるで時間が外側にあって、
拘束されているような印象を受けます。
外側にある時間という代物に、自分自身が管理されている。
知らず知らずのうちにそれが当たり前になっているのです。

時間というのは自身の中にあるもので、スケジュール帳を、
書き換えたところで私たちの時間が根本的
に変化したりすることはありません。

本来、時間というものは命そのもの。
そして、どんな時間も一回しかない。
これが大前提です。
「いま」という時間は、未来永劫、二度と訪れません。
たった一回限り。
時間とは、それほどシビアで、貴重なものなのです。
つまり、「いまという一度しかない時間を、
どう使うか」が時間管理の基本となります。

だから私はどんな相手に対しても、
「今日やるべきことは今日やらなければいけない」
と強く強く、主張しています。

今やらなければならないことは、今しかチャンスはありません。
次の機会など絶対に訪れないのです。
時間とは本来そういうもので朝できなかったことを昼にやるとか、
今日できなかったことを明日やるとかは、
根本的に不可能なのです。

時間とは「あなたの内側に存在しているもの」であり
「絶えず消え去っていくもの」です。
そのことを理解して初めて、時間管理が可能となるのです。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8457
まずは「この仕事の一番の適任者は誰か」と考える  (2013/8/21 [Wed])
 やりたくない仕事は誰かに放り投げてしまえばいい。
それができるなら、そうするのが一番のストレス回避法です。
ところが、「それができないから、苦労しているんですよ」と
あなたは言うかもしれません。

 放り投げる相手、適任者が見つからないときはどうするのか。
こうなったら、もはや自分でやるしかありません。
つまりはあなた自身が一番の適任者です。
それこそあなたの仕事です。その割り切りがとても大切です。
これが覚悟を決めるということです。

 「自分がやるしかない」という覚悟をもって、
「手抜きはしない」というプライドと共に仕事をする。
そうした意識を持っていれば、必ず仕事は楽しくなります。
人間の脳の中で分泌されるアドレナリンと
エンドルフィンという物質があります。
どちらも興奮や高揚したときに出るものですが、
アドレナリンは、主にストレス反応の際に分泌される物質。
エンドルフィンは、幸せを感じている時に分泌されるものです。

どうせ仕事をするのですから、ぜひともエンドルフィンが
出るようなやり方をしてください。
嫌な仕事でも「自分がやるしかないのだから、
プライドを持って、精一杯やる」と決めれば、
だんだんと充実してきてエンドルフィンが出てきます。

 好きなこと、楽しいことだけを仕事にできるなら、
言うことはありません。しかし、現実的には不可能です。
ですから、ストレスを軽減するには
自分の意識を変えるしかありません。
アドレナリンを出して体と心に負担をかけるのではなく、
エンドルフィンを分泌して自分の能力を開発していく。
考え方、やり方次第で、快感を覚えることは十分可能なのです。

辛い仕事は適任者に放り投げる。その相手がいなければ、
あなた自身が適任者であるということを、ぜひとも忘れないでください。
それはとても誇らしい状況なのですから。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8456
「雑事を少なく、軽々と暮らす」というブッダの教え  (2013/8/20 [Tue])
 仕事とストレスは切っても切れないもの。
そんなふうに思われています。
日本では仕事のストレスで自殺する人も多いようです。
どうしたら、そんな危機的な状況から逃れられるのでしょうか。
まずは、どんな時にストレスを感じているのかを理解し、
分析することが必要です。

具体的に「どこで、どうストレスが溜まっているのか」
を検証することからスタートです。
ストレスがかかる原因はさまざま。
人それぞれによってケースは異なるでしょう。

ただし、けっこう共通しているのは「ああ、仕事が嫌だなぁ」
「やりたくないなぁ」とおもっているのに、
やらなければばらないという状況。
この状況にストレスを感じている人は多いでしょう。
やりたくないことをやらなければいけないのですから、
もちろんストレスが溜まります。

ここで私が言いたいのは、
「それならまずは、ずる賢く考えてしまいましょう。
ということです。「やらなければならない仕事」を
やらないですむ方法を考えるのです。
もっとも簡単なのは、誰かにやってもらうこと。
仕事とは完璧を求められるものです。

 つまり、あなたは今「自分ではできない仕事」
「得意でない仕事」を求められ、苦しんでいるのかもしれません。
これはとんでもないストレスです。
それならいっそ「得意な人」に頼むのが一番。
頼まれた人は楽しんで(ストレスを感じることなく)
やってくれるかもしれませんし、
あなたに感謝されることを喜んでくれるかもしれません。
まさにお互いハッピーです。

 「雑事を少なく、軽々と暮らす」というブッダの教えにも符合します。
雑事というのは人によって異なるもので、
あなたにとって大変な雑事であっても、
すぐ隣の人にとっては「軽々とこなせるもの」かもしれません。

嫌な仕事を目の前にしたとき、「やらなければいけない」と
自分を追い込むのではなく、
まずは「どうしたら放り投げられるか」を考えてみましょう。
周囲を見渡して「この仕事をやってくれそうな人」
「この仕事を上手にこなせそうな人」を探して、
依頼してしまえばいいのです。
それがうまくいけば、確実にストレスは軽減されます。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8455
「自信がない」から、つい他人をいじめたくなる  (2013/8/19 [Mon])
 学校に限らず、職場でもいじめがあると聞きます。
いじめの実態は、その場所、その人によってさまざまで、
「こうすればいじめはなくなる」という単純なものでもありません。

仏教では、「与えられた環境でどう生きるか」を説いています。
環境を変えることはできないからです。

すると答えは単純で、環境に適応する強い精神力を持つしかありません。
その環境、立場を受け入れ、
堂々と生きる心の強さを身につけるほかありません。
その心の強さを身につけ、何をされても堂々と振る舞っていれば、
自然にいじめはなくなっていくものです。

 社会あるいは会社でいじめをする人というのは、
力が足りない証拠です。ほんとうに能力のある人は、
いじめなどしません。

日本という国は互いに協力的で、親切な面を持っています。
その一方で「近くにいる優れた人を素直に応援できない」
という側面も持っています。

ある種の国民性で、「優しい面」と「優しくない面」、
どの国にもあり仕方がないことですが、
目の前の優秀な人を見て足を引っ張ったり、
気に入らないからと言っていじめたりするのは
「自分の能力がないことを宣伝している」ということです。

ブッダは「すべての命に対して慈しみの心を持つように」と教えています。
慈しみとは相手のことを思い、心配する心。
たとえばそれは「けっして他人の苦しみを願わない」と
いうことでもあります。自分よりも能力が高い人を妬ましく感じたり、
性格的に合わない相手を「気に入らない」と嫌悪することもあるでしょう。

しかし、「すべての命に慈しみの心を持つ」ということは、
自分が嫌いな相手も、自分を嫌っている相手も、
同じように心配するということです。
嫌な相手をいじめるような、狭く見苦しい精神ではなく、
もっと大きな心を持つことが大事です。
世の中からいじめはなくなりませんが、
せめて自分だけは慈しみの心を持って相手と接する。
そんな人になって欲しいと思います。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8454
頭と心を空っぽにして「歩み寄る」  (2013/8/18 [Sun])
 空気とは共通点。複数の人が集まれば、
さまざまな相違点があって当然。価値観や性格、考え方、
考えるスピード、好き嫌い、選ぶ言葉、興味の対象など、
ありとあらゆるものが異なります。

 そんな中で、共通点や共通する環境を見つけ出すのは、
そう簡単ではありません。自分勝手に自由に考えているうちは、
まずうまくいきません。空気を読むための第一歩は、
自分の価値観、世界観を一旦停止することです。

自分の考えを一旦停止し、周囲の人たちの「輪」を観察し、
キャッチする。そこからすべてが始まります。

だから、自分の考えに意識が向いている人は、
空気が読めないのです。何よりもまず、
相手が発している「輪」(価値観、興味、世界観、
もしかしたらその時の気分など)を注意深く観察してみましょう。
すると、その場の共通点が見えてきます。

 私たちは誰でも「心のありよう」、「興味や気分」を、
電波のように常に発信しています。
お互いがその「心の電波」を感じ取って、チューニングしなければ、
通信することは不可能です。
まずは、相手がどんな電波を出しているのかを察知して、
その周波数が受信できるように自分の側で調整する。
そして次に、自分の言葉が相手に届き、
喜びが与えられるように、周波数を調整し発信する。
これがコミュニケーションです。

その第一歩として、自分の考えを停止し、
心と頭を空っぽにして、周囲の人たちに注意を向けてみてください。
すると自然に電波はキャッチできるはずです。
大事なのは「共通点はどこかを探ること」です。
「何を話すか」ではなく、「この場の空気はどうなっているか」
「共通する環境は」「それぞれの心の電波はどんなものか」を見極める。
これが本当の意味での「空気を読んだコミュニケーション」です。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋


vol. 8453
会話上手な人は「共通点探し」がうまい人  (2013/8/17 [Sat])
 少し前から、日本では「空気が読めない」という表現が
よく使われるようになりました。
誰かと話をするとき、確かに空気を読むことは大切です。
ただ問題なのは、「空気とはいったい何か」ということが
はっきりしない点です。
あなたは「空気」という存在をはっきり認識しているでしょうか。

 特に日本の場合、あいまいなものをあいまいのままにしておくことが、
とても多いようです。実際に「空気を読め」と言われても、
肝心の「空気」の存在がはっきりしなければ、
どう読めばいいのか分かりません。

ここでいう「空気」とはいったい何でしょうか。
結論からいえば、空気とは「共通点」です。
例えば、三人が集まって話しているとします。
人にはそれぞれ自分を中心とした輪のようなものがあります。
自分の知識、興味の対象、感覚的に反応する事象など、
自分の領域みたいなものです。

三人集まれば、当然三つの輪が存在します。
その三つの輪が重なっている部分、
つまりは共通点がその場の「空気」となるわけです。
「共通する環境」と言い換えることもできます。

たとえば、Aさんが「実はこんなことに興味を持っていまして……」
と話し始めたとします。ところが、Bさん、Cさんが
その内容にまったく興味を示さなければ、
Aさんは「空気の読めないヤツ」と思われるでしょう。

三つの交わっている部分でなく、自分一人の領域で話しているからです。
つまるところ、共通する環境に則って話ができていないわけです。
複数で話をするとき、注目すべきは共通点。
ここを意識してみてください。知識や経験という共通点はもちろん、
興味や気分についても「どのあたりが共通しているか」を考えることが、
いわゆる「空気を読む」ことなのです。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8452
「頭のいい人は、言葉をもって心に伝える」  (2013/8/16 [Fri])
 日本には「以心伝心」という言葉があります。
言葉に出さなくても、心が伝わるという素晴らしい関係です。
しかし残念ながら、そんなことは滅多に起こりません。

慈しみを持った人同士の間でごくまれに起こりますが、
普通はないと考えたほうがいいでしょう。
だから、言葉にすることが大切なのです。

 言葉で表現しなければ相手には伝わりませんし、
伝わらなければ相手は勝手に妄想します。
相手の勝手な妄想に任せたりしたら、コミュニケーションは成立しません。
物事というのは相手の妄想に任せてはいけません。
意味をはっきりさせなければいけないのです。

 そもそも仏教徒は、実に合理的で科学的なものです。
「あいまいなまま相手の妄想に
任せていい」などという考えは存在しません。
だいたい、「言葉にしなくてもわかって欲しい」と思うのは身勝手です。
相手に対して「こんなふうに理解して欲しい」と
自分の願いを強要するようなものです。
それでいて、相手がわかってくれないと
「どうしてわかってくれないの」と落胆し、相手を責めたりする。
そんなわがままな話があるでしょうか。

 実際のところ、「いわなくてもわかること」などありません。
だから、きちんと言葉にしていうべきなのです。
問題は「どんな言葉で、どんな言い方をするか」なのです。
その時は、もちろん愛語でなければなりません。
相手のことを思い、喜ばせようという意識を持って、
きちんと伝える。それを怠っておいて「わかるはずだろう」
「理解してくれると思っていた」というのでは通りません。
この場合は、相手の妄想に任せた自分が100%悪いのです。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8451
常に「愛語」を口にしなさい  (2013/8/15 [Thu])
 誰かに言葉をかけるとき、それは「愛語」でなければなりません。

愛語とは、仏教の世界の言葉ですが、端的に言えば
聞いた人が喜びを感じる、相手が聞きたいと思う言葉」のことです。
相手のことを考えず、自分の言いたいこと、自分の感情、
都合で言葉を選んでいるうちは愛語になりません。

 相手に言葉をかけるとき、
愛語であるかどうかを意識することが大切です。
相手に言葉をかける。これはコミュニケーションの基本。
その際、本気で相手のことを思い、心配し、
相手が喜ぶような言葉を選ぶ。相手を嫌な気分にさせてしまったら、
そこでコミュニケーションは終わりです。
コミュニケーションが成り立たなければ何の価値もありません。
だからこそ、努めて愛語を口にしなければいけないのです。

 たとえば、相手を叱るとき。
本当に相手のことを思い、心配して叱っているかが重要です。
部下が失敗して上司の自分が責任を取らされる。
そのことに怒り、感情を部下にぶつけてしまったら、
何も相手には伝わりません。
コミュニケーションの崩壊です。

しかし、上司が本当に部下のことを心配し、
その人の将来を思って叱るのだとしたら
発せられる言葉もまた変わってくるはずです。
その場合は、自然に、愛語になってしまうのです。
愛語とは「相手が喜ぶ言葉」。
その場では厳しい言葉でも、本気で相手のことを思った言葉であれば、
相手もいずれ気づいてくれるでしょう。
そして、その言葉に感謝し、喜んでくれるはずです。

 相手のことを思い、本気で心配する心のことを、
ブッダは「慈しみ」という言葉で教えています。
部下であろうと、上司であろうと、友人であろうと、
動物であろうとどんなものにも慈しみの心をもって接すれば、
自然に言葉は愛語になります。

本来、心というのはエゴイスティックなもので、
すぐに自分本位で考えようとするものです。
その本能をまるっきり入れ替え、
慈しみの心を育てるのも仏教の修行の一つです。
そう簡単にできることではありませんが、そうした意識を持つことで、
少しずつ心が変わっていくはずです。
心が変われば、当然言葉も変わってきます。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8450
しあわせに「一人勝ち」なんてありません  (2013/8/14 [Wed])
 仲間とはどういうものか。
ここではこのテーマについて考えてみましょう。

とはいえ、それほど難しく考える必要はまったくありません。
仲間とは単純に「協力し合うもの」です。その意識さえあれば、
仲間とはうまくやっていけます。

ところが実際には、協力どころか、競争し、
足の引っ張り合いをしていることもよくあります。
嘆かわしいことに社会全体が競争を奨励しているところもあります。
だから、本当の仲間がいなくなってしまうのです。

 そもそも競争とは破壊、奪い合いです。
そこからは何も生まれません。
競争社会というと、経済が活性化して、
社会全体が盛り上がると思っている人も多いようですが、
それは明らかに近視眼的な発想です。

一時的にはもうかっても、永続的にうまくいくシステムではありません。
本来、世の中は共存の世界だからです。
競争を繰り返して、最強の存在を決めるような世界ではありません。
どんなに激しい競争をしていても、ひとたび大きな災害が起これば、
一人では何もできません。そんな中で、私たちは互いに協力し、
助け合って生きていくしかありません。

 東日本大震災の時のことを思い出せば、
私たちが協力し合わなければいけないことは、明らかでしょう。
自然の猛威の前で、私たちができることなどありません。

ただ、その環境をそのまま受け入れるしかありません。
そんな状況とき、私たちは協力することによってのみ、
復興を果たしたり、命をつないだりすることができます。

 仲間とは、協力し合うもの。世界とは共存していくもの。
道徳的な意味ではなく、それがこの世界の摂理なのです。
競争して、自分だけが生き残ろうなんて、一時的には成功しても、
いつかは滅びてしまいます。
個人レベルはもちろん、会社や国家レベルにおいても、
そのことを改めて考え直す必要があります。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 8449
「状況をよくしたいなら、ゴマすりをすればいい」  (2013/8/13 [Tue])
 職場の悩みの第一位は、いつも変わらず人間関係です。
「どうしたら職場の人間関係がうまくいきますか」と質問してくる人もいます。
人間関係のうまくいく方法は確かにあります。
それは何より「状況を正確に把握すること」です。

人間関係で悩んでいる人は、とにかく状況把握が甘いのです。
人間関係の問題を口にする人は多いのですが、
状況を把握して、分析している人はほとんどいません。
ここが大きな問題です。
少し複雑なケースで考えてみましょう。

 たとえば、こんな感じです。
あなたの直属の上司は、部下から「よいしょ」や
「ごますり」をされるのが大好きな人です。

ところが、あなたは性格的にその種のことができない。
「そんなことをしてまで、上司に好かれたいとは思わない」と、
つい考えてしまうタイプだとしましょう。
その結果、あなたは何となく上司から嫌われ、
当然評価もされなくなる。
こんな場合はどうしたらいいでしょうか。

答えは単純です。
職場環境をよくしたいなら、上司にお世辞を言ったり、
ごますりをすればいいということです。

そもそも仕事というのは個人の都合や希望、
事情など考慮してくれる世界ではありません。
自分自身が与えられた環境に順応するしかないのです。
私たちは誰しも環境を変えることはできません。

つまり、自分自身を変えることで環境に適応するしかないのです。
もはや良い悪いの世界ではありません。
上司が「褒めて欲しい」と思っているのなら、
褒めてあげればいいだけのこと。

上司、同僚、部下、取引先の人、お客様など、
多くの人と交流すれば、中には自分と合わない人もいるでしょう。
時には、「この人のいうことはまるで筋が通らない」と
憤ることもあるでしょう。しかし、そもそも仕事というのは、
自我が通らないもの。だから順応するしかないのです。
相手がどうであれ、適応するしかないのです。
そのために、自分自身の心を鍛えること。
相手をとやかく言うよりも、そのほうがはるかに合理的です。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2448
「価値観なんて違って当たり前」と心得る  (2013/8/12 [Mon])
 あの人とは価値観が違うから一緒に仕事をしにくい。
そんなことをいう人がいます。
私から見れば、これは驚きの発言です。

さらに驚きなのは、まるで自分の価値観は正しく、
相手の価値観は違っているような言い方をする人がいることです。
価値観に、正しいも間違っているもありません。
ただ勝手に存在しているだけです。
それを、いちいち他人が評価するのはおかしな話です。

どんな場面で、どんな人と会ったとしても、
価値観が違うのは当たり前です。価値観のみならず、
能力も、人格も、育ってきた環境も全く違うのです。
まずはこの事実を認めなければいけません。
「おなじであること」を期待するのは、実にナンセンスなのです。

違いを認めないというのは、
自分勝手な価値観を相手に強要するのと同じです。
もし自分がそんなことをされたら、
とても嫌な思いをするのではないでしょうか。
価値観は人それぞれ。
その前提を理解し、相手の価値観を尊重することは、
人間関係を築く上での基本中の基本です。

では、仕事の現場ではどうしたらいいのでしょうか。
価値観も、能力も何もかも違うからと言って、
みんなが勝手な方向を向いていては仕事になりません。
そこで大事なるのが、目的です。

人が集まって一つの仕事をする場合、
必ず何か目的や目標があるはずです。
その目的に向かって仕事をする。
この単純な共通理解が必要です。
目的の前では個人の価値観も、性格も、関係ありません。
「どうしたら目的を達成できるか」という視点で全員が考える。
意見がまとまらないときは、リーダーが調整をすればいいのです。

人が二人集まれば「価値観が同じ」ことなどあり得ません。
仲良くするとは、相手と自分の差を認めることです。
間違っても「仲良し=同じであること」ではありません。
周りの人たちは、まるで違う価値観、人格のまま、
ただそこに存在し、何も変わってはくれません。
ですが、それでいいのです。
それがもっとも自然で当たり前の姿なのです。
何よりもまず、相手との違いを受け入れてください。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2447
「好き嫌い」は他人が決めること  (2013/8/11 [Sun])
 「人に慕われたいのですが、どうしたらいいですか」
そんな質問を受けることがあります。

組織に属していれば、年齢やキャリアに応じて
人の上に立つこともあるでしょう。
そんなとき、「どうしたら、私は部下から慕われるのだろうか」
と考える人がいても、不思議ではありません。

 しかし、はっきり言って「どうしたら慕われるか」
なんて考えること自体、完全に間違っています。
「あなたを慕うか、慕わないか」なんて、
相手が勝手に決めることです。相手の自由を奪ってまで、
「私を慕ってください」というなんてことが、通用するはずがありません。
「慕われたい」「信頼されたい」と思うのは人間のエゴです。
そんな思いが根底に流れていたら、
人との付き合いは決してうまくいきません。

「仕事とは相手のために役に立つことをする」
というのが原則です。そしてコミュニケーションは
「相手が喜ぶように話す」のが基本。
つまり、もともとが「相手のため」
「相手を喜ばせるため」の行為なのです。
慕われるかどうかは、その結果の話です。

 自分が上司になったとき、
「部下が気持ちよく仕事をするために、
こんなふうに考えてみようか」とか、
「こんなことを教えてあげたら、
もしかしたら仕事がスムーズになるかもしれない」と
思ってちょっとした配慮をしてあげる。
それが部下のためになったら、
自然に部下はあなたを慕うようになるかもしれませんし、
慕わないかもしれません。

 それは、相手が勝手に決めることです。
あなたが関与する問題ではありません。
「慕ってくれるか、くれないか」なんて
相手の問題に意識を傾けるのではなく、
「相手の役に立つために、自分がどうするべきか」という、
仕事の基本に立ち返ることのほうが、はるかに大切なのです。

 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2446
重要なのは「聞く」ことよりも「受け流す」こと  (2013/8/10 [Sat])
人の話を聞くとき、何を意識すればいいか。
私の答えは、実にシンプルです。
自分の役に立つことだけ聞いて、他は無視する。
これが一番でしょう。どんなに偉い人の話だって、
自分に役に立たないものを一生懸命聞いたところで、
何の意味もありません。そんなものは時間と労力の無駄です。
だから、私は「ああ、これは自分に役立ちそうだ」
という情報だけを頭に入れて、
その他はバッサリと捨ててしまうことにしています。

 子供は成長段階で、自然にそうやって選別しています。
元来、子供たちは自分に興味がある話しか熱心に聞きません。
興味があるもの、気になる事柄には夢中になりますが、
それ以外は見向きもしない。それが当たり前。
それが、本来の人間の姿なのです。
 
 ところが大人になると「情報をいっぱい持っているのが偉い」
とか「人の話は最初から最後まできちんと聞かなければいけない」など、
困った知識ばかりが先に立って、
本来できていた選別ができなくなってしまうのです。
私たちはもっと自然でいいのですよ。

 特に、最近は情報社会なので、
まなくても膨大な情報が入ってきます。
その場合でも「自分にとって役に立つのか」という基準で線を引き、
不要な情報はバッサリと捨てています。
話を聞く側は「自分が求めているもの」
「役に立つもの」だけをピックアップすればいいのです。

 「いろんな情報を知っていないと不安」
「このくらいの話題にはついていかなければいけない」というのは、
情報に踊らされている状態。すべては妄想の産物です。
情報が氾濫する世の中を変えることはできませんが、
せめて自分自身くらい、きちんと管理するべきです。

 メディアから発信された情報にしても目の前の人が
話している情報にしても、まず「自分に必要か」
「役に立つのか」を考え、不要なものはどんどん
切り捨ててしまって構わないのです。
むしろ、それがもっとも自然な形なのです。

 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2445
「自分に正直」に話すのはいけません  (2013/8/09 [Fri])
どうしたらコミュニケーションがうまく取れるようになるのか。
仕事をするからには、人との付き合いは不可欠。
当然、コミュニケーション能力も問われるでしょう。
コミュニケーションには、とりあえずツボのようなものがあります。
そのツボを意識するだけでも、コミュニケーション能力は向上します。

 まず、はっきりしているのは、
「自分の言いたいことなど、相手は聞きたくない」ということです。
これが、コミュニケーションの基本。それが真実です。
たいていの人は、つい「自分の言いたいこと」を話してしまう。
しかしそれでは、話すほうは気持ち良くても、
聞かされる相手は大概、苦痛です。

逆の立場に立ってみれば、あきらかでしょう。
「私はこんなことが言いたい」「こんなことが話したい」
「こんなふうにわかってもらいたい」と自分本位で話す人と
つき合いたいと思いますか。そうは思わないでしょう。
つまりその反対がコミュニケーションの極意です。
「どうしたら相手が喜ぶか」「何を聞きたがっているか」を考え、
工夫することです。コミュニケーションとは
「相手に喜びを与えること」だからです。

ミーティングや会議においても、自分が発言するときは、
「自分の意見を言う場面」だと思っている人も多いようですが、
それは自分勝手な考えです。
話をするとは、相手に喜びを与えること。
自分本位の押し付けなど、まったく意味がありません。
だからこそ、「何を」「どんなふうに」「どんな言葉で」
「どんなトーンで話すのか」を徹底的に考えるのです。

 「自分の意見は自由に言っていい」というのは傲慢で、
独善的な考えです。自分の意見だろうが何だろうが、
「相手に届きやすいもの」「相手が受け取って喜ぶもの」
を口にすることが、コミュニケーションの大前提です。
その意識さえ持っていれば、コミュニケーションは
以前よりずっとスムーズに、快適になるはずです。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2444
「仕事は必ず見つかります」  (2013/8/08 [Thu])
 就職したいのに採用されない。リストラされて再就職先がない。
そんな悩みをよく耳にします。そんなふうに悩む人は、
視野が狭く、大胆さが足りないと私は感じます。
そもそも「就職できなくて困っている」というのは、
単なるシステムの中で物事を考えている証拠です。

 たいていの人は高校や大学を卒業したら、
会社に入って働くのが当たり前だと思っています。
同じようにリストラされた人は、また別の会社を探して、
採用してもらおうと思っています。

しかし、「どこかに採用される」とは、
人間が生きていくために絶対必要なものでしょうか。
そんなはずはありません。会社に就職するというのは
一つの社会システムに過ぎません。
それも一部の人間が勝手に作り上げたシステムです。
もちろん、就職することが悪いわけではありません。
「働く=就職」という図式が非常に狭い発想だということを、
理解するべきです。

特定のシステムの枠にとらわれないで、
世の中を注意深く観察すれば、どんな仕事が求められ、
自分に何ができるかを知ることは、必ずできます。
すでに述べたように、マスターは社会で、人はみんな使用人です。

「こんな会社で仕事がしたい」「これくらいの給料が欲しい」
とシステムの枠の中で考えているうちはうまくいかないでしょうが、
大胆にその枠を取り払ってしまえば、必ず仕事は見つかります。
そんな大胆で、タフな発想を身につけてください。

 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2443
「お金」なんて、そんなに価値のあるものか?  (2013/8/07 [Wed])
 お金とは一体どんなものなのか。これもよく聞かれる問いです。
仕事について考えるとき、「お金の話は切っても切れない」と
考えている人も多いでしょう。あなたはお金は大事ですか。
そう問われれば、きっと、「大事だ」と答えるでしょう。
では、なぜお金は大事なのでしょうか。なかなか難しい問題です。
果たして、お金とは何なのでしょう。
現在は「お金がなければ生きていけない」と
いうくらいの世の中になっていますが、長い歴史を紐とけば、
お金というのは、つい最近生まれたものに過ぎません。
物々交換をしていた時代に、もう少し便利にやり取りしようと思い、
つくられたものがお金です。
その大前提を忘れないでください。

 私たちが何かについて考えるとき、「物の価値」を
正確にとらえることが肝心です。お金も同じ。
お金というのは交換の利便性を高めたもので、
お金そのものに価値があるわけではありません。
もっと言えば、物事に数字を当てはめたもの。
それがお金です。価値があるのは「物事」で決して「数字」ではありません。

 何かの事業を興すとき、「これはお金になりそうだ」と
考えたりしませんか。就職先を決めるとき、「ここは給料が高いから」と、
優先順位を高くすることはありませんか。
これは明らかに「物の価値」より「お金の価値」を
優先している証拠です。本来お金というものは
「誰かのお役に立つ仕事」をして、
その「ありがとう」の代わりに発生しているものです。
「どうしたら自分の力が相手のためになるのか」を
考えることが第一です。その結果として、
わずかばかりのお金がついてくるかもしれない。
お金とはそういう位置づけにあるものです。

 お金の価値や意味を忘れて、お金に振り回されてはいけません。
お金には便利な面もありますが、
それが「価値のすべて」になってしまったら、
それはとんでもない間違いです。お金に支配されないためにも、
私たちは「お金の本当の価値を」を正しく理解するべきなのですよ。

 「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

 

vol. 2442
「たかが仕事」と気づくだけで、驚くほど人生が楽になる  (2013/8/06 [Tue])
 仕事で悩み、精神的に参ってしまう。そんな人が増えています。
あなたは大丈夫ですか。
あるいは、あなたの周囲にそんな人はいませんか。
日本は、中高年の自殺者数が、先進国の中でかなり高いと言います。
なぜ、そんなにも心を病んでしまう人が多いのか。
これは、とても気になる問題です。ひとつには、
人生の一側面だけを見て、
それがすべてだと思い込んでしまう人が多いからでしょうか。

 言葉にすると簡単ですが、このタイプは意外と多いので、
注意が必要です。本来、人生には様々な側面があります。
一方がダメになっても、その他の方面まですべてが
ダメになることはありません。当たり前の話です。Aが倒れたって、
BとCは残っている。世の中とはそんなものです。
ところが、一つの側面だけを見て、「これがすべてだ」と
思い込んでいる人は、そのたった一つが倒れただけで、
人生のすべてがダメになったと思ってしまう。
それだけ視野が狭くなっているのです。

考えてみれば、このタイプの人が簡単に
心を病んでしまうのは当然のことです。
「仕事がすべて」だと思い込んでいる人は、
その「大事な仕事」が失敗したら、どうなってしまうでしょう。
「ああ、これでオレの人生も終わりだ」と思うのもあたり前です。
全体を見ず、一つだけに固執すると、
そのたった一つが壊れただけで、人の精神はくたくたに疲れてしまうのです。

  会社で仕事がうまくいかなくても、
その会社が倒産してしまったとしても、そんなもの、
人生全体から見たら、ほんの一部にすぎません。
一部が倒れただけで人生全体を悲観するなんて、
紛れもなく「勘違い」です。

 子供を育てるのも、家族と過ごすもの、お墓参りに行くのも、
友人とおしゃべりするのも、そのすべてが人生。
そのうちの一つが失敗したからといって、
大した問題ではありません。お金を稼ぐ仕事だけが
特別なわけではありません。そこを忘れないでください。
一つだけを勝手に特別扱いをして、
変な価値を与えてはいけないのです。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋



vol. 2441
「仕事を楽しめない」ことは恥ずかしいこと  (2013/8/05 [Mon])
 仕事も、人生も、楽しまなければダメ。
そういうとすぐに、「どうしたら楽しめますか」とか、
「楽しみを見つけるコツはありますか」と聞いてくる人がいます。
はっきり言って、仕事の楽しみなんて自分で見つけるものです。
「こうすれば楽しみが見つかる」という決まったやり方などありません。
しかし、そういってしまっては身も蓋もないので、ヒントを紹介しましょう。

 そもそも仕事とは、「相手のために何かやる」というのが出発点。
「楽しみ」を見つけたいなら、何よりも
まずその「原点」に立ち戻ってください。
「誰かの役に立っている」ということに喜びを感じる。
それが、仕事を楽しむ最大のコツなのです。
どんな人でも、相手を喜ばせることができたとき、
自分も喜びを感じているでしょう。
それは仕事の現場でも、もちろん同じです。

 たとえば、みんなが嫌がる仕事を、
与えられたとしましょう。
そんなとき、苦しみばかりを探す人は、
「どうして私がやらなければいけないんだ」
「他の人に頼めばいいのに」と思うでしょう。
まさに心が病気の状態です。こんな時こそ、
ちょっと違う角度で考えてみてください。
「誰もが嫌がっている仕事をやる」なんて、
もっとも人の役に立てる場面ではないでしょうか。
みんなが嫌がっている仕事を自分がやれば、
周囲は喜んでくれる。みんなに感謝され、
必要とされる。それこそ仕事の醍醐味です。
この心を持っていることこそ、
仕事を楽しむコツなのです。
さらにもう一つのコツを付け加えておくと、
「どうせやるなら、気持ちよく引き受けて、
文句ひとつ言わずにやる」ということです。
気持ちよく引き受けて、
黙って仕事を始めるほうが、
自分にとっても、周囲にとっても効果的です。

 さらにもう一つ。同じやるなら、
「こうやれば、もっと時間を短縮できる」
「次はこのやり方を変えてみよう」
などと工夫をしながらやったほうが、格段に楽しくなります。
結局、「仕事の楽しみが見つけられない」という人は、
わがままを言っているだけなのです。
「楽しい仕事」ばかりを求めて、「仕事の中に楽しみを見つける」
ことを怠っているのです。仕事の世界では、わがままは
通用しないのが当たり前です。自分の都合とは関係なく、
「人のためになること」が仕事の大前提です。
そして、その部分にこそ「仕事の楽しみ」が隠れています。


「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2440
「自分に与えられた役割」を理解していますか  (2013/8/03 [Sat])
 生きるためにする行為がすべて仕事である。
ものを食べることも、子供を育てることも、
もちろんすべてが仕事です。しかし、残念なことに、
世間では「収入を得るために行うことが仕事」というふうに
理解されているふしがあります。

「収入を得るために行う仕事とは何なのか」その答えは、
とてもシンプル。仕事とは、「人のために何かをすること」です。
相手がいて、その相手のために何かをする。
これが仕事であるわけで、
決してあなたの都合で働いているわけではありません。
みんなが自分のやりたいように仕事をやって、
世の中がうまく回るでしょうか。そんなはずはありません。
人や社会に必要とされる仕事を(好むと好まざるとに関係なく)
やるからこそ、社会はうまく回っていく。それが大原則です。

そして、もう一つ。私たちが「誰のために仕事をしているか」といえば、
突き詰めれば「社会のため」です。
社会が「マスター(主人)」で、すべての人は
その下で働く「使用人」。この関係が仕事の基本です。

私たちは例外なく、「社会から必要とされる仕事」を
しなければいけません。いい換えれば、
私たち一人ひとりは「社会から与えられた役割」を
担っているということです。それが会社の経営であれ、
育児であれ、家事であれ、
すべて社会のために働いています。

自分の都合や希望とは関係なしに、
社会から与えられた役割をこなす。これが仕事の原点です。
仕事をする現場では、自我など存在しないのが当たり前。
社会の事情によって、仕事をするのが当然なのです。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2439
「お金を稼ぐこと」だけが仕事ではない」  (2013/8/02 [Fri])
 何のために働くのか。そんな質問を、たまに受けます。
しかし、私に言わせれば、そんなことを考えること自体、
「病気」に冒されているようなもの。まったくおかしな話です。
仕事の持つ「本当の意味」を知らないから、
そんなことで悩むのでしょうね。
多くの人は「働く=お金を稼ぐこと」、「仕事=商売」だと思っています。
毎日会社へ行って、上司から与えられた作業をする。
そして給料をもらう。これが仕事だと思っています。
しかし、本当にそれが仕事なのでしょうか。

 そもそも「仕事」とは、そんな狭い意味のものではありません。
会社へ行って働く。これもたしかに仕事ですか、
家で洗濯や掃除をするのも、当然仕事。
その他、生きるために行っている行為すべて、仕事です。
お金を稼ぐ行為だけが仕事だなんて、狭く、つまらない考えです。

動物だって、昆虫だって、もちろん仕事をしています。
ミミズが生きていくとき、誰かが食べ物を口に突っ込んでくれるでしょうか。
そんなことは絶対にありません。
自分で働いて食べ物を探し、自分の力で食べなければ生きていけない。
これが働くという行為の本当の意味です。
ですから、「何のため?」という問いに無理やり答えるとするなら、
それは「生きるため」です。

 ところが、人間は「働く」とか「仕事」というものを、
勝手にややこしくしています。
元来、仕事とは呼吸のようなもので、やらなければ生きていけない。
ただそれだけのことです。
「何のために働くのか?」を改めて考えてみるなんて、ナンセンス。
そんなものいくら考えたって無駄なのです。

人は生まれた瞬間から死ぬまで、一生休まず、働かなければいけません。
それが生きることだからです。どんな人にも、生きるための仕事があります。
そして、その仕事には、休みも理由もありません。
「何のために働くのか」と思い悩んでいる人は、
何よりもまず「仕事の本当の意味」を理解してください。
お金を稼ぐというのは、「本当の仕事」のうちのほんの一部。
物事の一部を見て、それがすべてだと思うのは、大きな間違いなのですよ。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋

vol. 2438
仕事とは、「社会のために」何かすること  (2013/8/01 [Thu])
 この仕事は自分に向いているか、向いていないのか。
そんな悩みを持ったこともあるでしょう。どんな人にも向き、
不向きはあります。ここでは、まずは「向き・不向き」について、
簡単な見分け方を紹介しましょう。

 その仕事をやっていること自体は楽しんだけれど、
なんとなく苦しいと感じる。あるいは、
周囲の人に認められるほど成果を上げることができない。
これはもう「才能がない」状態です。つまり向いていません。
一方、そんなに面白くはないけれど、
淡々と続けることができる。それなりに成果も上げられる。
これはまさに「才能がある」状態。

要するに向いているのです。「やりたいか、やりたくないか」
「楽しいか、楽しくないか」とはちょっと違った視点で、
「目の前の仕事を淡々と継続することができるか」
「相応に評価されているか」を、シビアに検証してみてください。
つまるところそれが向き不向きです。

仕事とは、「相手のため、社会のため」にすることですから、
やはり「才能がある状態」でやらなければなりません。
「こんな仕事がしたい」といくら望んでも、
才能がなければやっぱり駄目です。
才能のある分野で働いていると、
それほど苦労しなくても淡々とできてしまう。
たいていの人は、「簡単にできてしまうこと」をあまり面白がりませんね。
それがたとえ、あなたにとって「つまらない仕事」でも、
周囲はそこに価値を認め、必要としてくれるものです。

仕事とは社会のためにやるもの。
その前提に立ち返るなら、
「あなたの能力を社会が買ってくれるかどうか」が、
仕事として成立するか否かの分かれ目です。

「一生、仕事で悩まないためのブッダの教え」より抜粋


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